漢楚名言集
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TITLE [1904] 韓信最高(^^; 98/07/30 11:05:37
WRITER 大島 渚 Mozilla/3.01 [ja] (Win95; I)
>Ratch
連載再開おめでとう御座います。

さて、ようやっと韓信せんせのお名前が出てきましたね(^^)
以前も書きましたが私は大の韓信ファンであります。
彼はぞの悲惨な末路も含めて非常に興味深くまた私にとって
魅力的な人物であります。

古今東西見渡して、「戦上手」という点において彼の右に出るもの
はいないのではないかと思います。
最期が最期なもんで三功臣の中では後世において比される事の無い
彼ですが、最高の軍事的頭脳と矛盾する純粋さ(一種の幼児性)を
持ち合わせてしまった世にも珍しい人物であると思います。

ま、この続きはRatch氏が次回の連載国士無双にて取り上げてくれる
ことと思います(勝手にリクエスト)(^^;


TITLE [1900] [漢楚名言集 〜第九回] 98/07/30 03:08:55
WRITER Ratch Mozilla/4.05 [ja] (Win95; I)
左遷

(エピソード)

王侯の地・関中(秦の本拠地である咸陽・長安一帯)を劉邦に与えるのは得策でないと考えた范増だが、
懐王の約束(先に咸陽に入城したものが関中王になる)のこともある。そこで当時僻地であった巴・
蜀・漢中(三国でいう蜀)の領土を与え漢中王とし、関中はというと三分して秦の降将章邯司馬欣
董翳にそれぞれ雍王・塞王・てき王(字がでません)に任命することを進言。これは、例え劉邦が
謀反を企てようとも三秦王に行く手を阻まれるという考えで、つまり監視の役割。

巴蜀は咸陽よりはるか西南の方向で、広い意味で当時関中の一部であった。三国志でもおなじみの通
り、山川険阻で交通もままならない土地で、中原から見ると僻地であった。よって、左遷とは咸陽か
ら見て左(西)の方向に遷すということに語源を発する。


(私見)

范増の策はもちろん項羽に決断をうながすに十分でした。ですが、結果はといえば漢は巴蜀から韓信
のもと進撃を開始します。おそらく、項羽・范増・三秦王とも油断があったのでしょう。「あの蜀の
桟道から迅速に攻めあがってくるとは考えられない」 そうでなくても、漢は謀反を起こさない証とし
て蜀の桟道を焼き払っています。まぁ、実際関中に進んだのは別ルート=陳倉からですがね。

(ここでクイズ!・・・・三国志で陳倉というとどんな話が思い付く?簡単か? )

ところで、この蜀から攻めるのは奇襲以外考えられないんでしょうかね?土地柄しょうがない感もあ
るけどね。「兵は脆道なり」・・・・って、これは桜花に任せるとして(笑) 蜀の北伐もそもそも
は奇襲だったけど、これは失敗(第一次)・・・・馬謖のせいだぁ〜〜<蜀ファンの叫び

TITLE[1554] [漢楚名言集 〜余談]98/06/27 02:39:34
WRITERRatchMozilla/4.04 [en] (Win95; I ;Nav)
鴻門の会に非ず

さて、三国志には鴻門の会に似たシチュエーションが2つあります。
いずれも未遂?に終わり、宴の主催者が「これは鴻門の会に非ず!」と客を安心させています。


[青梅、酒を煮て、英雄を論ず]
名場面の一つ。このときの曹操劉備に対し敵意はなく、日を追うほど親密を増していた。
だが、劉備はといえば、董承の連判状に名を連ねた直後であり、表面上は曹操にさとられぬようしていたときである。
その曹操が劉備に丞相府に参るように許チョ張遼を使いにだす。
劉備は早速一人で出向き、梅林の景色とそこでとれた梅の実を肴にして酒を飲みながら二人の英雄論が展開され、
「世に英雄といえるのは、予と君だけだ!」と言われた劉備が雷に怯える役者顔負けの演技をするのは周知の通り。
あとで事情を知った関羽張飛は曹操が劉備を殺しかねないと勘違いし、血相を変えて門を壊し乱入。
そして、関羽の苦しまぎれの言葉が「一興を添えるため無礼もかえりみず、剣舞を披露しに参りました」というもの。
曹操は笑って、「ここは鴻門の会ではない。いずくんぞ項荘項伯を用いんやである」と答えたのだった。

単なる関・張(=樊[口會])の早とちり。
劉備はといえば、そういうことしたら曹操に怪しまれるじゃないか〜?俺の演技が台無しになるやん?
と心の中では思っていたに違いない。


[フ城の会]
こちらの場合は、まさに鴻門の会を踏襲している。
漢中の張魯に脅威を感じた劉璋張松が劉備に助けを求める献策をうちだす(最初は曹操にだったが失敗ね)。
義を売り物にしている劉備は、同族の好ということで益州に自ら軍を率いる。
幕下のホウ統は蜀をものにする絶好の機会というが、劉備は躊躇。
一方劉璋側は劉璋はともかく、こちらも幕下が劉備を信用していない。
そして、フ城で両者は会見。宴たけなわになって空気が一変する。
ちなみに鴻門の会のときの人物に当てはめてみると・・・・

「項羽」=劉備
「劉邦」=劉璋
「范増」=ホウ統、法正
「項荘」=魏延、劉封
「項伯」=張任、冷苞、劉[王貴]、[登β]賢


という図式。結局、劉備の一喝で魏延・劉封が退き、劉璋はより劉備に信頼をおくことになる(やはり愚鈍)。
TITLE[1553] んがぁ〜、世界の壁はやはり厚いか・・・・98/06/27 02:32:12
WRITERRatchMozilla/4.04 [en] (Win95; I ;Nav)
なんとか一点はとったが、なんかすっきりしない試合だったなぁ〜。四年後は、もうちっといい試合して欲しいねぇ
<日本代表


To 夢務
なるほどね。でも、漢楚の戦いで漢が常に項羽の罪状をなじっていた一つに、その宋義誅殺のことがあります。その
あたりはどうなんでしょうねぇ〜?まっ、戦争における大義名分なんか自分勝手な都合によるものなんだろうけども?
話がいたちごっこになりそうだけど、とにかくこれからも、貴重なレスお願いするね!

To 渚
あなたのレスもたいへんためになりました。要は現代においてもリーダーが下のものの献策を採用するかどうかとい
うことだね。項羽のもとにたとえ陳平、韓信がそのままずっと残っていたとしても採用したかどうかというのは、非常に
この話のキーとなることです。ぶっちゃけた話、劉邦が天下をとれたのはたくさんの人を使いこなせたということだ!と
自分から言ってます(もちろん採用するのは自分次第)。逆に項羽は一人の范増さえも使いこなすにいたらなかったと。

それにも増してやはり、軍師とその主君の信頼関係みたいなものがやはり重要になってくると私は考えます。例えば、
「劉邦と張良」「劉備と諸葛亮」のように、主君がたとえ耳の痛い諫言であってもそれを受け入れる器量があるかどう
かということね。見方をもうちょっと変えれば、自分に自信があるスーパーマンはどんなに頑張っても必ず限界がある。
「質より量」という法則が現代でも生きているのかな?「三人寄れば文殊の知恵」などの言葉もあることだし。
もちろん、数多くてもみんなが頭悪い奴ばっかだと論外だとは思うけども。
TITLE[1527] レス&范増98/06/24 01:17:40
WRITER大島 渚Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.01; Windows 95)
>Ratch
范増さんのお話ですね、よく現代において、希代の名軍師という触れ込みで
紹介される人ですが、ご指摘のとおり、「軍師」としてはどうだったので
しょうか?という疑問は確かに残ります。

ただ、今我々が使っている「軍師」という呼称はこの当時の意味(もっとも
正式に「軍師」という役職名をもらったのは孔明さんが最初ですが・・)
とは大分異なります、
まあ、儒者が偉かった時代ですし、この当時中国では「相談役」的役割の人
が大分重宝されていました、范増は「軍師」というより明らかに「相談役」
のお人で、戦場において指揮する人ではないですね。
漢陣営の張良、陳平と同じ役割です。

范増の功績としては、項梁の旗揚げにおいて、シンボルとしての「懐王」を
作り上げた(^^;事、これが第一に挙げられるでしょう、
項梁に認められた事により「亜父」の称号を得た訳ですが、それだけでは
項羽せんせを押さえ切るのは難しかったんじゃないでしょか?

儒者の立場として、基本的には諮問があってはじめてそれに答えるといった
スタンスが春秋、戦国期に定着しており、その採用の是非は主人の胸八寸に
預けるのが妥当であったのだと思います。

よく言われることですが、配下の意見を聞きいれた劉邦と聞きいれなかった
竪子項羽との違いなんでしょうかね?
范増をちょっとかばうと、項羽の下に張良、陳平(実際にいた)がいても楚
の負けは変わらなかったのではないでしょうか?
TITLE[1526] Re:[漢楚名言集 〜第八回]98/06/23 22:28:37
WRITER夢務Mozilla/2.0 (compatible; MSIE 3.02; Update a; Windows 95)
>[鴻門の会]
>たとえ、鴻門で劉邦を殺すことができたとしても、諸侯はじめ天下を納得させることができたのであろうか?このとき
>の項羽は楚の一将軍としての立場であり、主君(懐王)をさしおいて勝手な処罰(もちろん罪状はでっちあげにするの
>であろうが・・・)はできないはずである。
>
当初、秦に攻められていた趙の救援として宋義が主将で副将が
項羽であったが宋義は項羽に斬られている。
また、秦軍をけちらしたことにより各地の諸侯が項羽のもとに
ぞくぞくと結集し、臣従したと思われるので、この時点で周囲から
みると項羽は大将軍である。
この点から項羽は劉邦を殺害でき、会の目的はこの点にあった
とみます。
TITLE[1513] [漢楚名言集 〜第八回]98/06/23 00:27:28
WRITERRatchMozilla/4.04 [en] (Win95; I ;Nav)
豎子(じゅし)ともに謀(はか)るに足らず

「小僧とはいっしょにやれんわ」


(エピソード)
張良樊[口會]らの機智により無事鴻門の会の危機を脱した劉邦は、項羽に暇を伝えることなく覇上に戻りました。
あとに残った張良は、項羽にひれ伏してこう言います。
「我が君(劉邦)は、元来酒に弱いタチで、今も気分を悪くして先に帰りました。辞去のご挨拶もかなわない状態なのでどうぞお許し下さい。
ところで、我が君は咸陽入城の際に白璧一対を手に入れました。大王(項羽)に献上したく持って参りましたので、どうかおおさめ下さい。」
項羽は上機嫌でうけとろうとすると、傍らにいた范増が剣をひきぬいてその白い玉を突き砕き、ため息をついて言った言葉です。


(私見)
ようやく、楚に関するエピソードが登場しました。
范増としては、この鴻門の会で誰がなんといおうと劉邦を殺したかった。それが、項羽の天下を盤石にするものと信じてやまなかった。
でも、その項羽といえば、「劉邦怖るるに足らず」という自分に対する絶対的な自信のため、范増の献策を最後にはとりあげることはなかったということです。

「豎子」とは、子供という意味。転じて未熟な者や年少者を軽蔑して呼ぶ言葉。
そりゃ、范増のような年寄りから見れば誰でも小僧には見えるんだろうがね(笑)
ちなみにこの言葉は、三国志ものとかの時代小説に登場する人を揶揄する「逆賊」、「匹夫」と同様おなじみですね(爆)

さて、この楚の第一軍師范増という人物に対して私ははなはだ疑問を感じています。
というのも、ほんとにまともなことを言ってやってのけたのか?

[鴻門の会]
たとえ、鴻門で劉邦を殺すことができたとしても、諸侯はじめ天下を納得させることができたのであろうか?
このときの項羽は楚の一将軍としての立場であり、主君(懐王)をさしおいて勝手な処罰
(もちろん罪状はでっちあげにするのであろうが・・・)はできないはずである。

[劉邦漢中王左遷]
王侯の地・関中を劉邦に与えるのは得策でないと考えた范増だが、
懐王の約束(先に咸陽に入城したものが関中王になる)のこともある。
そこで当時僻地であった巴・蜀・漢中(三国でいう蜀)の領土を与えるよう進言。漢中⊆関中なんで一見みごとな策に見える。
だがしかし、結果は漢はこの蜀の地の利を得、密かに兵力を養い鍛え、名将韓信を得て最後は楚を倒すことになる。
果たして、この程度のことを范増は見抜けなかったのか? この左遷に関しては別の回に詳しく紹介するつもりです。

まだ、他にもあるかもしれません。項羽は范増のことを尊んで「亜父」(父に次ぐの意)と呼んでいました。
そのような立場でありながら項羽の様々な暴挙をなぜ未然に防ぐことができなかったのか?
これらの問題に関しては反論あるでしょうが、とりあえずネタ振りということで皆さんに振ってみます。
TITLE [1407][漢楚名言集 〜第七回] 98/06/10 01:44:23

大行は細謹(さいきん)を顧みず

「大事を前にして、小事にこだわってはならない」

(エピソード)
まず、皆さんご存知だとは思うけど(漢文の授業によくでてくる)、鴻門の会とはどういったエピソードか触れておきます。

前回紹介したとおり、楚の懐王は「関中に一番乗りしたものが、王となる」と諸将に約束しました。
劉邦が一番乗りを果たしたわけですが、項羽のほうは納得がいくわけはありません。
秦の主力部隊章邯と戦っていたのも項羽軍だし、懐王を擁立したのも楚の名門項家でしたから。
挙げ句の果てに、項羽が関中に入ろうとすると劉邦軍が砦を守って拒む様子。
これに激怒した項羽に対して、軍師の范増はかねてから劉邦の人気に危険視していたため、
劉邦を殺すよう軍を差し向ける進言をします。

それを耳にした項伯(項羽の叔父)は張良と面識があったため、彼だけでも逃がしてやろうと
劉邦軍の駐屯する覇上まで、夜中馬を飛ばします。
項伯から事情を聞いた張良は、劉邦を見捨てることができず、項伯を劉邦に紹介します。
項羽の軍は桁外れに強い、それに兵力でも勝ち目はない! と考えた劉邦は下手にでることとし、
項伯に、「我が軍が、函谷関を固めていたのは盗賊の進入を防ぐため、項王に会って釈明したい」と申し出ました。
戻ってきた項伯は早速、項羽に攻撃中止を進言し戦闘は避けられました。
そして、咸陽からすぐ近くの鴻門の地で劉邦釈明の会見が行われたのです。

自分にへりくだる劉邦の姿を見て、元々感情の起伏が激しく、自尊心に強い項羽は機嫌を直し
そのまま宴会を開くのですが、范増は何がなんでも殺さなくては奴は必ず歯向かうに違いないと考えていたのです。
宴会の途中、項羽に何度暗殺の合図を送っても項羽にその気はありませんでした。
業を煮やした范増は項荘(項羽の従兄弟だっけ?) に宴会の余興で剣舞の途中に劉邦を殺すように命じます。
剣舞が始まると、ただならぬ殺気に劉邦たちもそのことに気づくのですが、客の立場ではどうすることもできない。
そんなとき、項伯が剣の相手をし、なんとか劉邦を守ります。

機転を利かした張良は樊[口會]を宴の席に呼びます。
呼んでもいないのに何故やってきたか! という項羽の怒鳴り声に、
樊[口會]は「我々にも酒・食い物を与えてくれてもいいじゃないか?」と言い返し、
酒の一気飲み、豚の肩肉を命懸けで食べました。
この突然の樊[口會]乱入の騒ぎで、剣舞は沙汰止みになり、ひとまず劉邦は生き長らえるのです。

劉邦がトイレに立つと、ボディーガードでもある樊[口會]もついてきました。
その場で、劉邦は「もうあんな息の詰まる場に戻りたくない。帰りたい。
でも、挨拶も無しに退席するのは項王に失礼だし・・・・。」
そのときの樊[口會]の言葉がこれ。ちなみに全文はこうなっています。
「大行は細謹を顧みず、大礼は小譲を辞せず。今人はまさに刀俎たり、我は魚肉たり。何ぞ辞するを為さん。」
大事を前にして、小事にこだわってはいけません。我々は今俎板の上の鯉も同じです。
料理されようとしてる鯉が、料理人に「では、これで失礼」なんて挨拶してから去りますか?

こうして、無事劉邦一行は覇上に帰ることができました。
ただし、張良だけはまだ宴席にいたのですが・・・・・・それは、また次回で。

(私見)
っちゅ〜か、思ったより長くなってしまいました。大事を前にして、小事にこだわるな!っていろいろな場面で耳にするねぇ〜。
とにかく何が大事で何が小事なのか、見究めることが大切だということもこの話から読み取れるのかな?


TITLE [1251][漢楚名言集 〜第六回] 98/05/30 01:06:55

法は三章のみ

(エピソード)
項羽が秦隋一の将軍・章邯と趙で激戦を繰り広げていたこともあり、先に関中を制したのは劉邦軍でした。
悪宦官趙高は、趙高によって殺された始皇帝の長子・扶蘇の子の子嬰にすでに誅され、
秦は新しい時代を迎えた暁だったのですが、章邯も項羽に降伏したため、もはや風前の灯火でした。
咸陽近くの覇上にいた劉邦は子嬰に降伏勧告をつきつけ、子嬰もそれを了承します。秦の滅亡です。
この時劉邦は咸陽に兵を進めたく思っていましたが、配下の張良樊[口會]らに反対され、しぶしぶ覇上に駐屯します。
都咸陽の莫大な財宝・後宮の女を諦めた一世一代の禁欲生活です。
後にこの行動が関中の民衆による人望となるのですが・・・・。

先に咸陽に辿り着いたものを、関中王にする」という懐王のおすみつきをもらっていたため、
劉邦はもう王になるものと思っていました。
さっそく土地の長老を呼んで、自分がここにやってきたのは、人民の害を取り除きに来たのであり
決して乱暴を働きに来たのではないと話しました。
そして、今までの過酷な法律を撤廃し、次の三つのみの誰にでもわかるいたってシンプルな法をいいわたしたのです。

一、 人を殺した者を死刑とする
二、 人を傷つけた者は処罰する
三、 人の物を盗む者は処罰する

これを聞いて民衆は狂喜し、劉邦の寛大ぶりを褒め称えました。

(私見)
この「約法三章」の故事は、為政者の明快な法律観として、中国では後々まで語り継がれたそうです。
社会が複雑化して絡み合っている現代には、このような法律では通用しないのはわかっているけど、
もうちっとシンプルであってもいいとは思うんだけど??

余談だけど、三国蜀においてはこれと対照的な法律を孔明が定めました。
つまり、劉備が劉璋を降伏させて成都に入った直後のことです。
孔明のつくった条文が極めて厳しかったので、法正がおそるおそる忠告します。
「せっかく、蜀の民は仁政を喜んでいますから、高祖(劉邦)のように法は三章にすればいかがですか?」
それに対して、孔明が笑ってこういう。
「あのときは、商鞅がつくった過酷な法律のために、民衆はずいぶんあえいでいた。
それで高祖は寛仁な三章をもって人民をてなずけたのだ。
されど劉璋時代は、ほとんど威もなく、法もなく、道もなかった。民は峻厳を求めていた。
このような時に、為政者が甘言をなすほど愚かなる政治はない。仁政と思うは間違いである。」
このあと、孔明が法正に対して、法とは?と諭すのですが。
長くなるので割愛します。このときの法律が「蜀科」だったっけ?(^_^;)

よくよく考えれば、孔明も法家だっけな、忘れちゃいけないあの曹操も。
街亭で蜀が破れたときも、兵力では蜀が勝ってた。かといって、人の質でもない・・・・やはり法だ!と言ってます。
ただ、孔明の作った法は、非常に厳格なものでしたが、不平不満も起こらなかった。
つまり、誰もが納得のできる内容だったってことかな。
このあたりが、彼の素晴らしいところですね。
もし、孔明さんが父親だったら、厳格ではあるが子供からも愛されるような気がするねぇ〜。
子供もきっといい子に育つような気がします。事実、息子諸葛瞻も諸葛家に恥じない死に方をしたし・・・。
けども、仕事いっぺん張りでなかなか家に帰ってこない父親を見て、子がグレるってこともありそうだ(笑)

今回から、主要人物を太文字にしてみました。習いたてのタグ、うまくいくといいなぁ〜

あと、次回から鴻門の会にまつわるエピソードに突入します。
今回のように、三国志の場面と比較していきたいと思っております。


TITLE [1203][漢楚名言集 〜第五回] 98/05/26 23:17:09

倨して長者に見(まみ)ゆべからず

「そんないばった態度で、年長者に会うもんじゃない!」

(エピソード)
[麗β]食其(れきいき)が劉邦と初めて会ったときの言葉。
楚の懐王の命により関中攻略に劉邦軍が向かう途中、
河南の高陽で地元の名士[麗β]食其(れきいき)の名を聞きつけ、彼を幕舎に呼びました。
やがて、客人の[麗β]食其が来訪します。
それを聞いたとき、劉邦は床几に腰かけ、足を投げ出して二人の女に洗わせていました。
面倒なのでその態度のまま会見に臨むと、その老人の一声!

「お前さんは、秦の側にたって諸侯を攻めているのか?それとも諸侯を率いて秦を攻めているのか?」
劉邦が、バカなことを言うな、秦を倒そうとしてるに決まってると言うと、
[麗β]食其が、「無道な秦を倒すために軍を進めてきたというなら、
足を投げだしたままで人に会うような無礼な真似はしないものだ。」と言う。
自分の非に気づいた劉邦は、足を洗うのをやめ礼をもって[麗β]食其をもてなし、今後の策を聞いたということです。
その中の一つに交通の要所となる陳留を拠点とし、ここで軍を再編成・鍛えて、兵糧を確保するという
重要な助言がありました。以後、[麗β]食其も劉邦軍に投じ、関中一番乗りに大きな手助けとなるのです。

(私見)
そういえば、かの曹操も「予は老人が好きだ。なんたって、その歳まで生きてきたことだけでも
偉いじゃないか。老人を尊敬する。」と言った気もします(演義かなんかで)。
今でもCMでやってるよね〜。
「年寄りを大事にしない国は、ほ〜ろ〜び〜る〜ぞ〜」って、バス中で。


TITLE [1132][漢楚名言集 〜第四回] 98/05/21 01:16:28

燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや

王侯将相(おうこうしょうそう)いずくんぞ種(しゅ)あらんや

「燕や雀に、どうして大鳥の気持がわかろう(いや、わからない)」
「王や諸侯といっても、みんな同じ人間じゃないか!」

(エピソード)
世界史の教科書にも出てくる人類史上最初の農民反乱、「陳勝・呉広の乱」の首謀者陳勝、字は渉の言葉です。
若い時、雇われ農夫で働いていた時に相棒にこう言いました。
「将来どちらかがえらくなっても、お互いを忘れないにしようぜ。」
しかし、その相棒は「雇われ農夫の身分で、そんな偉そうなこと言うんじゃね〜よ。」
と言って馬鹿にして陳勝を笑いました。それに対する彼の言葉が、「燕雀〜」の言葉です。
小さい人間には、とうてい大きい人間の考えることなんかわからないんだな! という意味です。

その陳勝が徴発されて、国境警備の守備に赴き漁陽という町まで送られてきたとのこと。
大雨が降り続けたため、足止めをくらいました。
前にも触れましたが、秦の法律で遅れた者には死罪という法律があったのです。
「例え無事に辿り着いたとしてもどうせ殺されるんだ。だったら、賭けにでようぜ!」
と同僚の呉広を誘って反乱を起こすのです。これが陳勝・呉広の乱の始まりです。
最初こそ規模は小さかったのですが、次第に賛同者が増え秦王朝を揺るがしかねない反乱となりました。
それだけ、商鞅が作った秦の法律が厳しかったのです。この乱のスローガンになった言葉が、次の「王侯将相〜」です。

その後、この陳勝は王となり国号を「張楚」と称しました。
もちろん、史上最初の農民政権です。一方秦では、章邯を将軍としてその反乱軍の鎮圧にかかり始めました。
名将とうたわれる章邯の前に反乱軍は破れ、陳勝はついに下城父で御者の荘賈という人物に首をとられ
反乱軍は壊滅しました。ただ、この反乱の波は一層激しくなり、やがて項羽劉邦といった英雄の出現のきっかけとなったのです。

(私見)
なかなかいい言葉です。前者は気骨ある若者が好んで口にする言葉だし、
後者は「人間全てみな平等?」のスローガンをこの時代からかかげています。
ただ、陳勝たちが失敗した要因として大義名分がなかったことです。
つまり、楚の項梁(項羽のおじ)のように然るべき人物を立てないで自分が王になってしまったことですね。

頭が悪くて、なおイヤな奴に対して、「燕雀〜」なんて言ってやるのもまた一興でしょう。
逆に「お前のほうが頭おかしいんじゃないか?」ってやり返されるオチもあるでしょうがね。


TITLE [1046] [漢楚名言集 〜第三回] 98/05/14 12:08:54

馬を指して鹿となす(馬鹿)

(エピソード)
始皇帝と二代皇帝・胡亥に仕えた史上悪名高い宦官・趙高にまつわる話。
始皇帝の死後、権力欲にとりつかれ、有名どころでは始皇帝が本来後継者に選んだ長子の扶蘇
その後見人・蒙恬(匈奴討伐で有名な将軍)、さらには丞相・李斯をも誅殺するという極悪ぶり(しかも、全員無実)。
しばらくしてなお、自分にとって邪魔になる人物を見つけるてっとりばやい手段として次のようなことを思いつき実行。
あるとき、趙高が宮中で皇帝胡亥に「鹿です」といって馬を献上する。
宮中では趙高を怖れて「鹿」といったり、「いやおかしい。どうみても馬だ」という二つに分かれる。
この事件で趙高は周りの自分に対する忠誠心をはかり、
その後、鹿を馬だといった人物をことごとく濡れ衣を着せて殺した。

(私見)
この話って名言でもなんでもないんですけど、面白いのでここに紹介しました。
タイトルも「漢楚」となってるのですが、その複線ともなる秦末期のものということでとりあげました。
この趙高ほど悪な宦官はちと見当たりません。後漢の十常侍、三国蜀の黄皓・呉の岑コンなど足元にもおよびません。
共通点は「今がよければそれでいい。あとは野となれ山となれ」って考えの持ち主だったくらいかな?
だが、宦官にも歴史に役立った人物はいまして、以前にこの魏呉蜀でも誰かが話して気がするけど、
前漢の司馬遷(ご存知史記)、後漢の蔡倫(紙を発明)、後漢の鄭玄馬融とともに訓詁学を大成)などですね。
さて「バカ」ですが、これって今の使い方とは違うけれどけっこう奥深い言葉だよね〜。
ほんとのこと言いたいけども言えない。好きな人になかなか好きといえない、
あるいは、上司にさからえないなどなど。「バカ」になってて苦悶してる人も多いでしょう。
陰ながら応援してます・・・(って誰に対して?)(爆)


TITLE [1019] [漢楚名言集 〜第二回] 98/05/12 00:28:17

壮士行かん、何んぞ畏れん

「男じゃないか そんなものが怖くてひきさがれるか」

いつの時代もそうだと思いますが、特に始皇帝時代は農民に過酷な賦役を課していました。
その例が万里の長城、阿房宮といったもので、どうも権力者というのは土木事業を好むようです。
沛県の下級役人だった劉邦も囚人たちを始皇帝陵まで護送する役を命じられました。
しかし相手は囚人でもあり、秦の法律で期限までに間に合わないとき、場合によっては死刑といったことから
途中で次々と脱走者が相次ぎ、途中の豊西に辿り着いたときには半分にも満たない人数となっていました。
「このまま目的地に着いたとしても責任を問われるのは目に見えている。それなら!」と酒を飲んでいた劉邦は
残りの囚人たちをも解放してしまい、「お前たちも好き勝手にどこにでも行くがいい。俺も逃げる」と言う。
その中で行く当てのない囚人たちは劉邦についていくと言い出し、近くの山へと向かい、
山賊とまではいわないまでもほとんど自給自足の生活を始めようと再び道を歩き出します。

このとき、劉邦は酒をかなり飲んでおり気持も大きくなっていたのでしょう。
物見のひとりが困惑した表情で劉邦にこう言う。
「道に大きな大蛇がとぐろをまいて道をふさいでおり、進むに進めません。」
それに対して言った言葉がこれ。
そのまま畜生のぶんざいで! ってな具合に一刀両断にして大蛇を切り捨てたのです。
しばらく行くと、道の脇に一人の老婆が涙を流している様子。
劉邦一行の一人が老婆に問うと、「あ〜、私の息子が赤帝の子に殺された〜。」
そういって、老婆は姿を消しました。

ただ、このエピソードは、どうも後世の作り話のようです。
他にも劉邦のお尻に72のほくろがあったとかいうふうに、乱世を鎮めた英雄漢の高祖を神格化しようとしたのでしょう。
いずれにしてもこの豪傑ぶりが劉邦をちょっとした名を高めるものとなったはずです。
なにしろ、この時は名声なんてなかった時でしたから。

誰しも酒を飲んで気ばかりでなく、腕っぷしも強くなるんだったら四六時中酒は手放せませんがね(笑)


TITLE [995][漢楚名言集 〜第一回] 98/05/08 03:45:18

大丈夫まさにかくの如くなるべきなり

「ああ〜!男と生まれたからにはこんな風にあらなくては・・・」

秦の始皇帝は天下統一の後、自らの権力の強大さを知らしめるため全国各地に巡行を行いました。
その都咸陽において劉邦が労役の監督として赴いたときに彼が心の中でつぶやいた言葉がこれです。
彼にはこのとき天下をとってやるといった野心は少しもなかったことでしょう。
いや、漢中王になり韓信を得て初めてもったように思えます。
このときの言葉は劉邦が素直に感じた言葉だったのでしょうか?

それに対して、項羽は対称的です。「今に見ていろ!きっとおまえに取って代わってやるからな!」って具合です。
気性の荒い項羽らしい言葉といえます。そういえば、かの人徳を売りにする劉備も同じこといったような?
気だけは項羽なみだけど、配下を頼りにするところは劉邦に似てるとは・・・。

さて、今の時代に「大丈夫まさにかくの如くなるべきなり」と言わしめる人物は果たしているんでしょうかね?
政治家ではまずいませんよね?仮に、「とってかわってやる!」っていうふうな粋のいい人でも、
そうそう期待できそうにないし・・・・。

最初なのでこれくらいの軽めにしておきます。


TITLE [994] 連載開始の挨拶 98/05/08 03:16:13

ご無沙汰してます。Ratchです。

若輩ながら私めも連載を開始したく思い、重い腰を久々にあげてみました。
テーマは「項羽と劉邦にまつわる名言」です。三国志と同じく日本人にも愛さ
れている史記の中の話しですが、こちらはリーダーが二人ということで比較す
るのがやや容易なように思われます。家臣たちも目をみはるべき活躍をこの
時代にしていました。現代にも使われている言葉が多く、ビジネス面や人間
関係に有益なものもあります。皆様の温かい了解を得ることを祈って開始い
たしたいと思っています。

なお、参考となる書籍にはいろいろあるのですが、主に、
劉邦 この「人望力」を見よ! 松本一男著 三笠書房
を参考にしたく思っております。

これからもどうぞよろしく!


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