TITLE | [1904] 韓信最高(^^; | 98/07/30 11:05:37 | ||
WRITER | 大島 渚 | Mozilla/3.01 [ja] (Win95; I) |
TITLE | [1900] [漢楚名言集 〜第九回] | 98/07/30 03:08:55 | ||
WRITER | Ratch | Mozilla/4.05 [ja] (Win95; I) |
TITLE | [1554] [漢楚名言集 〜余談] | 98/06/27 02:39:34 | ||
WRITER | Ratch | Mozilla/4.04 [en] (Win95; I ;Nav) |
TITLE | [1553] んがぁ〜、世界の壁はやはり厚いか・・・・ | 98/06/27 02:32:12 | ||
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TITLE | [1527] レス&范増 | 98/06/24 01:17:40 | ||
WRITER | 大島 渚 | Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 4.01; Windows 95) |
TITLE | [1526] Re:[漢楚名言集 〜第八回] | 98/06/23 22:28:37 | ||
WRITER | 夢務 | Mozilla/2.0 (compatible; MSIE 3.02; Update a; Windows 95) |
TITLE | [1513] [漢楚名言集 〜第八回] | 98/06/23 00:27:28 | ||
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大行は細謹(さいきん)を顧みず
「大事を前にして、小事にこだわってはならない」
(エピソード)
まず、皆さんご存知だとは思うけど(漢文の授業によくでてくる)、鴻門の会とはどういったエピソードか触れておきます。
前回紹介したとおり、楚の懐王は「関中に一番乗りしたものが、王となる」と諸将に約束しました。
劉邦が一番乗りを果たしたわけですが、項羽のほうは納得がいくわけはありません。
秦の主力部隊章邯と戦っていたのも項羽軍だし、懐王を擁立したのも楚の名門項家でしたから。
挙げ句の果てに、項羽が関中に入ろうとすると劉邦軍が砦を守って拒む様子。
これに激怒した項羽に対して、軍師の范増はかねてから劉邦の人気に危険視していたため、
劉邦を殺すよう軍を差し向ける進言をします。
それを耳にした項伯(項羽の叔父)は張良と面識があったため、彼だけでも逃がしてやろうと
劉邦軍の駐屯する覇上まで、夜中馬を飛ばします。
項伯から事情を聞いた張良は、劉邦を見捨てることができず、項伯を劉邦に紹介します。
項羽の軍は桁外れに強い、それに兵力でも勝ち目はない! と考えた劉邦は下手にでることとし、
項伯に、「我が軍が、函谷関を固めていたのは盗賊の進入を防ぐため、項王に会って釈明したい」と申し出ました。
戻ってきた項伯は早速、項羽に攻撃中止を進言し戦闘は避けられました。
そして、咸陽からすぐ近くの鴻門の地で劉邦釈明の会見が行われたのです。
自分にへりくだる劉邦の姿を見て、元々感情の起伏が激しく、自尊心に強い項羽は機嫌を直し
そのまま宴会を開くのですが、范増は何がなんでも殺さなくては奴は必ず歯向かうに違いないと考えていたのです。
宴会の途中、項羽に何度暗殺の合図を送っても項羽にその気はありませんでした。
業を煮やした范増は項荘(項羽の従兄弟だっけ?) に宴会の余興で剣舞の途中に劉邦を殺すように命じます。
剣舞が始まると、ただならぬ殺気に劉邦たちもそのことに気づくのですが、客の立場ではどうすることもできない。
そんなとき、項伯が剣の相手をし、なんとか劉邦を守ります。
機転を利かした張良は樊[口會]を宴の席に呼びます。
呼んでもいないのに何故やってきたか! という項羽の怒鳴り声に、
樊[口會]は「我々にも酒・食い物を与えてくれてもいいじゃないか?」と言い返し、
酒の一気飲み、豚の肩肉を命懸けで食べました。
この突然の樊[口會]乱入の騒ぎで、剣舞は沙汰止みになり、ひとまず劉邦は生き長らえるのです。
劉邦がトイレに立つと、ボディーガードでもある樊[口會]もついてきました。
その場で、劉邦は「もうあんな息の詰まる場に戻りたくない。帰りたい。
でも、挨拶も無しに退席するのは項王に失礼だし・・・・。」
そのときの樊[口會]の言葉がこれ。ちなみに全文はこうなっています。
「大行は細謹を顧みず、大礼は小譲を辞せず。今人はまさに刀俎たり、我は魚肉たり。何ぞ辞するを為さん。」
大事を前にして、小事にこだわってはいけません。我々は今俎板の上の鯉も同じです。
料理されようとしてる鯉が、料理人に「では、これで失礼」なんて挨拶してから去りますか?
こうして、無事劉邦一行は覇上に帰ることができました。
ただし、張良だけはまだ宴席にいたのですが・・・・・・それは、また次回で。
(私見)
っちゅ〜か、思ったより長くなってしまいました。大事を前にして、小事にこだわるな!っていろいろな場面で耳にするねぇ〜。
とにかく何が大事で何が小事なのか、見究めることが大切だということもこの話から読み取れるのかな?
法は三章のみ
(エピソード)
項羽が秦隋一の将軍・章邯と趙で激戦を繰り広げていたこともあり、先に関中を制したのは劉邦軍でした。
悪宦官趙高は、趙高によって殺された始皇帝の長子・扶蘇の子の子嬰にすでに誅され、
秦は新しい時代を迎えた暁だったのですが、章邯も項羽に降伏したため、もはや風前の灯火でした。
咸陽近くの覇上にいた劉邦は子嬰に降伏勧告をつきつけ、子嬰もそれを了承します。秦の滅亡です。
この時劉邦は咸陽に兵を進めたく思っていましたが、配下の張良、樊[口會]らに反対され、しぶしぶ覇上に駐屯します。
都咸陽の莫大な財宝・後宮の女を諦めた一世一代の禁欲生活です。
後にこの行動が関中の民衆による人望となるのですが・・・・。
先に咸陽に辿り着いたものを、関中王にする」という懐王のおすみつきをもらっていたため、
劉邦はもう王になるものと思っていました。
さっそく土地の長老を呼んで、自分がここにやってきたのは、人民の害を取り除きに来たのであり
決して乱暴を働きに来たのではないと話しました。
そして、今までの過酷な法律を撤廃し、次の三つのみの誰にでもわかるいたってシンプルな法をいいわたしたのです。
一、 人を殺した者を死刑とする
二、 人を傷つけた者は処罰する
三、 人の物を盗む者は処罰する
これを聞いて民衆は狂喜し、劉邦の寛大ぶりを褒め称えました。
(私見)
この「約法三章」の故事は、為政者の明快な法律観として、中国では後々まで語り継がれたそうです。
社会が複雑化して絡み合っている現代には、このような法律では通用しないのはわかっているけど、
もうちっとシンプルであってもいいとは思うんだけど??
余談だけど、三国蜀においてはこれと対照的な法律を孔明が定めました。
つまり、劉備が劉璋を降伏させて成都に入った直後のことです。
孔明のつくった条文が極めて厳しかったので、法正がおそるおそる忠告します。
「せっかく、蜀の民は仁政を喜んでいますから、高祖(劉邦)のように法は三章にすればいかがですか?」
それに対して、孔明が笑ってこういう。
「あのときは、商鞅がつくった過酷な法律のために、民衆はずいぶんあえいでいた。
それで高祖は寛仁な三章をもって人民をてなずけたのだ。
されど劉璋時代は、ほとんど威もなく、法もなく、道もなかった。民は峻厳を求めていた。
このような時に、為政者が甘言をなすほど愚かなる政治はない。仁政と思うは間違いである。」
このあと、孔明が法正に対して、法とは?と諭すのですが。
長くなるので割愛します。このときの法律が「蜀科」だったっけ?(^_^;)
よくよく考えれば、孔明も法家だっけな、忘れちゃいけないあの曹操も。
街亭で蜀が破れたときも、兵力では蜀が勝ってた。かといって、人の質でもない・・・・やはり法だ!と言ってます。
ただ、孔明の作った法は、非常に厳格なものでしたが、不平不満も起こらなかった。
つまり、誰もが納得のできる内容だったってことかな。
このあたりが、彼の素晴らしいところですね。
もし、孔明さんが父親だったら、厳格ではあるが子供からも愛されるような気がするねぇ〜。
子供もきっといい子に育つような気がします。事実、息子諸葛瞻も諸葛家に恥じない死に方をしたし・・・。
けども、仕事いっぺん張りでなかなか家に帰ってこない父親を見て、子がグレるってこともありそうだ(笑)
今回から、主要人物を太文字にしてみました。習いたてのタグ、うまくいくといいなぁ〜
あと、次回から鴻門の会にまつわるエピソードに突入します。
今回のように、三国志の場面と比較していきたいと思っております。
倨して長者に見(まみ)ゆべからず
「そんないばった態度で、年長者に会うもんじゃない!」
(エピソード)
[麗β]食其(れきいき)が劉邦と初めて会ったときの言葉。
楚の懐王の命により関中攻略に劉邦軍が向かう途中、
河南の高陽で地元の名士[麗β]食其(れきいき)の名を聞きつけ、彼を幕舎に呼びました。
やがて、客人の[麗β]食其が来訪します。
それを聞いたとき、劉邦は床几に腰かけ、足を投げ出して二人の女に洗わせていました。
面倒なのでその態度のまま会見に臨むと、その老人の一声!
「お前さんは、秦の側にたって諸侯を攻めているのか?それとも諸侯を率いて秦を攻めているのか?」
劉邦が、バカなことを言うな、秦を倒そうとしてるに決まってると言うと、
[麗β]食其が、「無道な秦を倒すために軍を進めてきたというなら、
足を投げだしたままで人に会うような無礼な真似はしないものだ。」と言う。
自分の非に気づいた劉邦は、足を洗うのをやめ礼をもって[麗β]食其をもてなし、今後の策を聞いたということです。
その中の一つに交通の要所となる陳留を拠点とし、ここで軍を再編成・鍛えて、兵糧を確保するという
重要な助言がありました。以後、[麗β]食其も劉邦軍に投じ、関中一番乗りに大きな手助けとなるのです。
(私見)
そういえば、かの曹操も「予は老人が好きだ。なんたって、その歳まで生きてきたことだけでも
偉いじゃないか。老人を尊敬する。」と言った気もします(演義かなんかで)。
今でもCMでやってるよね〜。
「年寄りを大事にしない国は、ほ〜ろ〜び〜る〜ぞ〜」って、バス中で。
燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや
王侯将相(おうこうしょうそう)いずくんぞ種(しゅ)あらんや
「燕や雀に、どうして大鳥の気持がわかろう(いや、わからない)」
「王や諸侯といっても、みんな同じ人間じゃないか!」
(エピソード)
世界史の教科書にも出てくる人類史上最初の農民反乱、「陳勝・呉広の乱」の首謀者陳勝、字は渉の言葉です。
若い時、雇われ農夫で働いていた時に相棒にこう言いました。
「将来どちらかがえらくなっても、お互いを忘れないにしようぜ。」
しかし、その相棒は「雇われ農夫の身分で、そんな偉そうなこと言うんじゃね〜よ。」
と言って馬鹿にして陳勝を笑いました。それに対する彼の言葉が、「燕雀〜」の言葉です。
小さい人間には、とうてい大きい人間の考えることなんかわからないんだな! という意味です。
その陳勝が徴発されて、国境警備の守備に赴き漁陽という町まで送られてきたとのこと。
大雨が降り続けたため、足止めをくらいました。
前にも触れましたが、秦の法律で遅れた者には死罪という法律があったのです。
「例え無事に辿り着いたとしてもどうせ殺されるんだ。だったら、賭けにでようぜ!」
と同僚の呉広を誘って反乱を起こすのです。これが陳勝・呉広の乱の始まりです。
最初こそ規模は小さかったのですが、次第に賛同者が増え秦王朝を揺るがしかねない反乱となりました。
それだけ、商鞅が作った秦の法律が厳しかったのです。この乱のスローガンになった言葉が、次の「王侯将相〜」です。
その後、この陳勝は王となり国号を「張楚」と称しました。
もちろん、史上最初の農民政権です。一方秦では、章邯を将軍としてその反乱軍の鎮圧にかかり始めました。
名将とうたわれる章邯の前に反乱軍は破れ、陳勝はついに下城父で御者の荘賈という人物に首をとられ
反乱軍は壊滅しました。ただ、この反乱の波は一層激しくなり、やがて項羽・劉邦といった英雄の出現のきっかけとなったのです。
(私見)
なかなかいい言葉です。前者は気骨ある若者が好んで口にする言葉だし、
後者は「人間全てみな平等?」のスローガンをこの時代からかかげています。
ただ、陳勝たちが失敗した要因として大義名分がなかったことです。
つまり、楚の項梁(項羽のおじ)のように然るべき人物を立てないで自分が王になってしまったことですね。
頭が悪くて、なおイヤな奴に対して、「燕雀〜」なんて言ってやるのもまた一興でしょう。
逆に「お前のほうが頭おかしいんじゃないか?」ってやり返されるオチもあるでしょうがね。
馬を指して鹿となす(馬鹿)
(エピソード)
始皇帝と二代皇帝・胡亥に仕えた史上悪名高い宦官・趙高にまつわる話。
始皇帝の死後、権力欲にとりつかれ、有名どころでは始皇帝が本来後継者に選んだ長子の扶蘇、
その後見人・蒙恬(匈奴討伐で有名な将軍)、さらには丞相・李斯をも誅殺するという極悪ぶり(しかも、全員無実)。
しばらくしてなお、自分にとって邪魔になる人物を見つけるてっとりばやい手段として次のようなことを思いつき実行。
あるとき、趙高が宮中で皇帝胡亥に「鹿です」といって馬を献上する。
宮中では趙高を怖れて「鹿」といったり、「いやおかしい。どうみても馬だ」という二つに分かれる。
この事件で趙高は周りの自分に対する忠誠心をはかり、
その後、鹿を馬だといった人物をことごとく濡れ衣を着せて殺した。
(私見)
この話って名言でもなんでもないんですけど、面白いのでここに紹介しました。
タイトルも「漢楚」となってるのですが、その複線ともなる秦末期のものということでとりあげました。
この趙高ほど悪な宦官はちと見当たりません。後漢の十常侍、三国蜀の黄皓・呉の岑コンなど足元にもおよびません。
共通点は「今がよければそれでいい。あとは野となれ山となれ」って考えの持ち主だったくらいかな?
だが、宦官にも歴史に役立った人物はいまして、以前にこの魏呉蜀でも誰かが話して気がするけど、
前漢の司馬遷(ご存知史記)、後漢の蔡倫(紙を発明)、後漢の鄭玄(馬融とともに訓詁学を大成)などですね。
さて「バカ」ですが、これって今の使い方とは違うけれどけっこう奥深い言葉だよね〜。
ほんとのこと言いたいけども言えない。好きな人になかなか好きといえない、
あるいは、上司にさからえないなどなど。「バカ」になってて苦悶してる人も多いでしょう。
陰ながら応援してます・・・(って誰に対して?)(爆)
壮士行かん、何んぞ畏れん
「男じゃないか そんなものが怖くてひきさがれるか」
いつの時代もそうだと思いますが、特に始皇帝時代は農民に過酷な賦役を課していました。
その例が万里の長城、阿房宮といったもので、どうも権力者というのは土木事業を好むようです。
沛県の下級役人だった劉邦も囚人たちを始皇帝陵まで護送する役を命じられました。
しかし相手は囚人でもあり、秦の法律で期限までに間に合わないとき、場合によっては死刑といったことから
途中で次々と脱走者が相次ぎ、途中の豊西に辿り着いたときには半分にも満たない人数となっていました。
「このまま目的地に着いたとしても責任を問われるのは目に見えている。それなら!」と酒を飲んでいた劉邦は
残りの囚人たちをも解放してしまい、「お前たちも好き勝手にどこにでも行くがいい。俺も逃げる」と言う。
その中で行く当てのない囚人たちは劉邦についていくと言い出し、近くの山へと向かい、
山賊とまではいわないまでもほとんど自給自足の生活を始めようと再び道を歩き出します。
このとき、劉邦は酒をかなり飲んでおり気持も大きくなっていたのでしょう。
物見のひとりが困惑した表情で劉邦にこう言う。
「道に大きな大蛇がとぐろをまいて道をふさいでおり、進むに進めません。」
それに対して言った言葉がこれ。
そのまま畜生のぶんざいで! ってな具合に一刀両断にして大蛇を切り捨てたのです。
しばらく行くと、道の脇に一人の老婆が涙を流している様子。
劉邦一行の一人が老婆に問うと、「あ〜、私の息子が赤帝の子に殺された〜。」
そういって、老婆は姿を消しました。
ただ、このエピソードは、どうも後世の作り話のようです。
他にも劉邦のお尻に72のほくろがあったとかいうふうに、乱世を鎮めた英雄漢の高祖を神格化しようとしたのでしょう。
いずれにしてもこの豪傑ぶりが劉邦をちょっとした名を高めるものとなったはずです。
なにしろ、この時は名声なんてなかった時でしたから。
誰しも酒を飲んで気ばかりでなく、腕っぷしも強くなるんだったら四六時中酒は手放せませんがね(笑)
大丈夫まさにかくの如くなるべきなり
「ああ〜!男と生まれたからにはこんな風にあらなくては・・・」
秦の始皇帝は天下統一の後、自らの権力の強大さを知らしめるため全国各地に巡行を行いました。
その都咸陽において劉邦が労役の監督として赴いたときに彼が心の中でつぶやいた言葉がこれです。
彼にはこのとき天下をとってやるといった野心は少しもなかったことでしょう。
いや、漢中王になり韓信を得て初めてもったように思えます。
このときの言葉は劉邦が素直に感じた言葉だったのでしょうか?
それに対して、項羽は対称的です。「今に見ていろ!きっとおまえに取って代わってやるからな!」って具合です。
気性の荒い項羽らしい言葉といえます。そういえば、かの人徳を売りにする劉備も同じこといったような?
気だけは項羽なみだけど、配下を頼りにするところは劉邦に似てるとは・・・。
さて、今の時代に「大丈夫まさにかくの如くなるべきなり」と言わしめる人物は果たしているんでしょうかね?
政治家ではまずいませんよね?仮に、「とってかわってやる!」っていうふうな粋のいい人でも、
そうそう期待できそうにないし・・・・。
最初なのでこれくらいの軽めにしておきます。
ご無沙汰してます。Ratchです。
若輩ながら私めも連載を開始したく思い、重い腰を久々にあげてみました。
テーマは「項羽と劉邦にまつわる名言」です。三国志と同じく日本人にも愛さ
れている史記の中の話しですが、こちらはリーダーが二人ということで比較す
るのがやや容易なように思われます。家臣たちも目をみはるべき活躍をこの
時代にしていました。現代にも使われている言葉が多く、ビジネス面や人間
関係に有益なものもあります。皆様の温かい了解を得ることを祈って開始い
たしたいと思っています。
なお、参考となる書籍にはいろいろあるのですが、主に、
劉邦 この「人望力」を見よ! 松本一男著 三笠書房
を参考にしたく思っております。
これからもどうぞよろしく!