三国志人物評論
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選考基準 投稿者:大耳兒  投稿日:08月17日(月)17時10分16秒

と言う程の事ではないのですが・・・。
条件

・演義と正史の描写の差が甚だしい事
・あまりメジャーではない事
・ちゃんと演義にも正史にも登場している事
これくらいでしょうか?
以上の条件を満たすと魏の人物が多くなるんですよね。


三国志人物評論第13回ー毋丘倹ー 投稿者:大耳兒  投稿日:08月08日(土)09時44分55秒

毋丘倹(ブキュウケンまたはカンキュウケン)。字は仲恭(演義では仲聞)。河東聞喜の人。
鎮東将軍として淮南(寿春)に駐屯していた時に楊州刺史文欽とともに
司馬師に背いた。これを単なる謀反と見るか謹皇と見るかは意見の分かれるところであろう。
正史によれば毋丘倹は平原の文学、尚書郎、、羽林監から典農を経て荊州刺史に昇進。
青龍年間に遼東征伐に参画して幽州刺史に転任。袁氏の残党、烏丸を降伏させ、
次いで司馬懿とともに公孫淵を平定。功績により安邑侯となる。
更には正始年間に高句麗に侵攻しほぼ制圧。
その地方に灌漑を行ったり山にトンネルを掘るなど住民に恩恵を施した。
その後左将軍を兼務しながら予州刺史に転任し、呉軍に敗れた諸葛誕と役目を交替。楊州に鎮する。
そして謀反。
経歴を見れば軍人としても民政家としても立派な成果を残しているように思える。
高句麗侵攻に際しては記念碑を残しているくらいなので、未曾有の快挙であったに違いない。
「謀反」魏の忠臣としての決起であったのか?
惜しむらくは相棒の文欽が勇猛ながら知恵の無い男であった事。
思えば諸葛誕の失敗にもこの男文欽が関係している。全く疫病神である(笑)。
また、毋丘倹の反乱鎮圧に参加した諸葛誕が同じく謀反したのも歴史の皮肉である。

私がこのマイナーな毋丘倹を取り上げた理由。
邪馬台国関係の資料を調べていると毋丘倹の高句麗侵攻の行軍記事に出くわすことがあるので。
演義では目立たないが、実は結構大物なのではないかと思ったのでした。


三国志人物評論第12回 王朗 投稿者:大耳兒  投稿日:08月04日(火)13時46分20秒

演義では会稽の太守でありながら豪族厳白虎に味方して孫策に敗れて逃げ出している。
当時の配下に虞翻がいたのもその後曹操に仕えるのも史実通りだが、
演義に描かれているほど愚劣な人物ではない。
見方によれば賊軍に敗れて曹操に身を寄せた名士という点で孔融に似ているとも言えよう。
(呉ファンの方には申し訳ないが、この時点で孫策軍は私兵団(=賊軍)であり、
王朗は漢帝国の正規の官僚である。)
正史の記述は長々と王朗が名臣であることを讃えているが、面白いエピソードに欠けるので」
割愛する。まったく面白くない爺さんである(笑)。
その伝は華[昔欠]・鍾ヨウと並べて立てられており陳寿から「似たような事跡・性格」の人物
と評価されていたことが知れる。
演義での華[昔欠]の描写は王朗以上にひどいものだが(笑)実は当時屈指の名士であった。
世説新語のエピソードによれば王朗は何かにつけて華[昔欠]と比較され、
それに及ばないものと評価されている。
・華[昔欠]を真似て祭りの宴を催していたが「王朗が華[昔欠]を真似るのはうわべにすぎない。
  真似るほどに遠ざかるのだ」と評された。
・華[昔欠]とともに賊難を避けた時、見知らぬ男に同行をせがまれて華[昔欠]は断ったが、
  王朗は受け入れた。やがてその男の追手によって窮地に陥った時王朗は男を見捨てようとし
  たが、華[昔欠]は「こうなることは判っていたので最初に反対したのだ」
  と言いながら男を見捨てなかった。
2番目については全くの架空の話のようであるが、世間は二人の優劣をこのように見ていたらしい。

結論
確かにその温厚な名士としての名声のみで名臣と称せられたに過ぎない感のある人物です。
政治家としての実績も殆ど皆無だし。ましてや軍師としての実績などあろうはずがありません。
演義の作者に随分と酷く扱われた人物としてやや同情してしまいます。
でも、面白味のない人物なので好きにはなれないかな(笑)。


三国志人物評論第11回ー鍾会ー 投稿者:大耳兒  投稿日:07月14日(火)09時30分13秒

鍾会。字は士季。魏の元勲鍾ヨウの末子。兄は鍾毓。
幼い頃から神童の誉れが高かったらしい。

幼少時のエピソード
○文帝に拝謁した時、兄は満面に汗を流し、一方弟は涼しげな顔であった。
文帝に問われて、兄(毓)「戦々惺々として汗がたらたら流れるのです」
弟(会)「戦々慄々として汗も出ないのです」(兄13の時)
○父の昼寝中に酒を盗み飲む際、毓は拝したが会は拝しなかった。
後に寝たふりをしていた父に聞かれて、毓「酒を飲むのは儀礼なので拝せずにはおれません」
会「盗むのは礼に外れているので拝する必要はありません」
(世説新語にはまったく同じ話が孔融の子供の話としてもある)

青年時代は学者としても名を馳せ、老子の註を作成した王弼と並び称された。
ただ、ケイ康は憚ったようである。
また、欲深で嫉妬深い面もあったようである。

当時のエピソード
○四本論を書いてケイ康に一読してもらおうと思ったが、批判されるのが恐くなって
ケイ康の家に放り込んで逃げ帰った。
○後に呂安の事件に関連してケイ康を讒言して処刑させた
○甥の持っていた宝剣を甥の字を真似てその母から騙し取った

出仕後は司馬昭の懐刀的な存在として特高的な役を担い重宝されたらしい。
諸葛誕の反乱鎮圧においては作戦参謀的な役割で参加している。
蜀の征圧戦には総司令官として抜擢され、成功を収める。
しかし最後にはその功に奢り、反逆(割拠)を企てるも自滅。
(司馬昭は鍾会の謀反の可能性も把握しており、それが失敗するであろうことも見通していた。)

評論
書や論理学に巧で冷徹な目を持った一種の天才ではないかと私は愚考します。
惜しむらくは名門の坊ちゃん(父は魏の元勲かつ書聖)故の詰めの甘さと
酷薄な性格による人望の無さが彼に災いしたのでしょう。
言い換えれば所詮その程度の人物だったわけです。
「反乱が失敗しても劉備程度にはなれよう(割拠できる)」と本人は思っていたようですが、
才知の点ではともかく人物としては大きく劉備に劣っていたようです。
また、最後まで司馬昭の掌から脱しきれなかった感があります。
人の上に立つ器量は持ち合わせていなかったのでしょう。
秘書的な役割に終始していれば生涯を全うできたのかも知れません。


諸葛氏徒然 投稿者:大耳兒  投稿日:07月10日(金)11時48分29秒

セカンドのログを見ていて思い付いた事があったので徒然なるままに。
ほんの2ヵ月前は随分と硬派で盛り上がっていたんだよなぁ。

・諸葛三兄弟の「龍・虎・狗」は世説新語にも載っています。
・諸葛誕の子、恢は呉に仕えていたので、いくつかエピソードがあるようです。
・更に「珪璋」という単語を発見。玉飾りの一種のようです。
こういった言葉があったとすると諸葛珪と諸葛璋は兄弟だったという可能性も出てきますね。
・殷浩という人物を登用するに当たっての人物評があり、
そこでは殷浩は諸葛亮に匹敵すると評価されています。
東晋中期にはすでに諸葛亮の評価は確定していたのでしょう。

以上です


三国志人物評論第10回 投稿者:大耳兒  投稿日:06月01日(月)21時19分48秒

満寵字伯寧。山陽郡昌邑の人。
演義では劉曄に推薦されて曹操に仕えた事になっています。
荀イク・荀攸・毛[王介]等と同時期です。
献帝の洛陽帰還後に曹操と楊奉が争った際には敵将徐晃を説得して味方に付けています。
その後、例の禰衡に「酒粕でも食らわせておけば良い」と罵られています。
それからしばらく出番はありませんが、忘れた頃に再登場します。
満寵の最大の見せ場となる曹仁を助けての樊城の防衛戦です。
弱気になって撤退をほのめかす曹仁を説得して、魏の荊州における拠点を死守しました。
そして最後は合肥で呉の侵攻を防ぐという大功をたてています。
登場は早いが、活躍するのは三国志終盤という大器晩成型の人物の様です。
さて、正史ではどうでしょう。
18歳で一旦出仕しますが、しばらくして帰郷。
後にエン州牧となった曹操に召し出されています。
しばらくは従事として曹操の側に仕えていましたが
やや酷吏とも言える仕事ぶりだったようです。
そのせいか、やがて太守として外に出されてしまいます。
この時期が演義における空白の時期でしょう。
汝南太守を皮切りに長期に亘って主に荊州、楊州方面の守備にあたっています。
汝南では袁紹の党派を平定し、樊城では曹仁と共に関羽の猛攻を退けています。
さらに曹休の死後は楊州方面の軍事責任者となり、呉の侵攻を防いでいます。
このあたりは演義の描写は史実にほぼ忠実です。
最後は老齢のため召還されましたが、官位は大尉に昇っています。
若い頃は厳格で煙たがられたようですが(そのせいで地方へ転出させられた?)、
太守としての任地を移る際には禁令を無視して思慕して付き従う兵士・民衆
がいるほど人望があったそうです。
総じて謹厳な人物であったと言えるでしょう。
楊州守備時代、仲違いした同僚(王凌)に「老齢」を理由に讒言された際、
朝廷に出向いて肉を食い、酒を飲んで健在ぶりをアピールしたそうで
これは戦国時代の廉頗を彷彿とさせます(禰衡の罵言の元ネタ?)。
正史のエピソードからすると結構面白い人物ですが、
残念ながら蜀との絡みが少なかったので演義では登場場面が少なかったのでしょう。
頑固爺さんの若い頃の話も面白かったかも知れませんね。


第9回三国志人物評論 投稿者:大耳兒  投稿日:05月15日(金)20時58分02秒

諸葛誕字は公休。諸葛亮の族弟(従兄弟)。
魏に仕えて征東大将軍(楊州方面の最高指揮官)となる。
夏侯玄らの浮華の徒と交友あり。
そのため割拠(及び反乱)を恐れた司馬昭により司空として召還されるも拒否。
呉と手を結んで反乱を起こす。
援軍の文欽との不和等により敗戦。処刑される。

演義ではほぼ正史通りに描写されています。
とくに最期の場面では部下は全員が諸葛誕に殉じたなど、
正史通りに部下の信望厚い名将として描かれています。
瑾・亮兄弟に比べればやや劣る人物だったのかも知れませんが「狗」は少々気の毒な気がします。
司馬昭の腹心の賈充や配下の楊州刺史楽[糸林]を
「おぬしは○○の息子ではないか!」と叱責するなど
あくまでも魏に対する忠臣であり、晋に対しての逆臣だったのだから
後世(晋代)の評価としてはやむを得ないのでしょうけど。
それに夏侯玄らの浮華の徒との交友についても、
彼らは曹爽を中心とする魏王室の親族と繋がっていたわけですから、
諸葛誕もおそらく政治的な意味でも繋がっていたのでしょう。
もしも司馬一族がいなかったら魏の最高権力者にまで上り詰めていたかも。
まあ、それは考えすぎとしても、逎の評価はなかったでしょう。
ついでに言わせてもらえば、「浮華の徒」とは決して軽佻浮薄なものではなく、
漢末の清流派から竹林の七賢につながる当時の哲学者みたいなものでした。
結果的にはこの清談の影響(王衍の故事は有名ですよね)で西晋は滅んだのだから
あまり褒められたことではありませんがね。
閑話休題
結論。
諸葛誕は先祖の諸葛豊に似て厳格で実直な人物であった。
そして部下からは命を捨てても惜しくない程敬愛されていた。
そういった意味では瑾、亮兄弟にもよく似ているが、
哲学的な交流があった点では誕の方が人物として懐が広かったのではないだろうか。


第8回 曹純 投稿日:04月20日(月)15時15分43秒

>これって各人の年齢の流れはどうでしたっけ?曹純って曹真より年下でしたっけ?
>(覚えてないんで^^;)

実は私も曹洪を調べた時(例の疑問を掘り下げた時)に少々悩みまして、
今度も再調査してみたのでした。
結果は「やっぱ、ようわからん」でした。3人ともに年齢を算出する規準が見当たらないのですよ。
ただ、曹純は14歳で父と死別、家督相続、18歳で黄門侍郎に出仕。20歳で曹操につき従う。死亡は210年。
これだけはわかっています。しかしこれでは年齢は推測できません。
そこでついでに「三国志人物評論第8回 曹純の巻」になだれこんでしまいましょう。

曹純の同母兄は曹仁(168年生)。しかしなぜか家督は弟の曹純が相続しています。
この時代、同母兄弟の弟が家督を相続するのは珍しいのではないでしょうか。
ましてや、兄は後世において一流の武将として評価されている人物です。
私の推測ですが、兄の曹仁は父の死亡時には勘当に近い状態だった、
少なくとも家にはいなかったからと思われます。
曹仁伝によると「(曹仁は)若者を結集して淮水・泗水のあたり(徐州の南部)を暴れまわった。」
「(曹仁は)若い頃は身をつつしまなかった。」という記述があり、
そのまま仲間を連れて190年(対董卓の挙兵)頃に曹操につき従ったと考えられるのです。
この頃の曹仁はちょっと荒っぽい、遊侠がかった人物だったのでしょう。
一方の曹純は最初の任官が「黄門侍郎」、曹操に仕えて「議郎」というように
まじめな「能吏」タイプだったように思えます。
もちろん、勇猛でもあったのでしょうがどちらかといえば「知将」でしょうね。
「虎豹騎」の指揮官としては南皮包囲戦(205)、長坂追撃(208)が有名です。
長坂では劉備の娘を捕虜にしたらしいのですが、この娘って劉備伝にも記載がないようなゥB
このあたり、小説のテーマになりそうな気がしますが惜しいですね。
曹純の死後虎豹騎は「曹純以上に有能な指揮官は得られない」と曹操が直接率いたわけですが、
前任者の曹休・曹真は生存していました。ということは・・・。
演義では単なるやられキャラですが、実際は兄以上の名将の可能性もあります。
一応年齢を試算してみました。
死亡時の年齢は30〜35歳くらいではないでしょうか。
早世したために演義では貧乏籤を引かされたのでしょうね。惜しい人物でした。


考えちゃいますねぇ 投稿者:ナックル  投稿日:04月18日(土)07時44分03秒

>(虎豹騎の歴代の指揮者は曹休、曹真、曹純(曹仁の弟)。

 これって各人の年齢の流れはどうでしたっけ?
曹純って曹真より年下でしたっけ?(覚えてないんで^^;)


>正史とは時の権力者に差し出すものなのですから。

 これを考えると色々と想像しちゃいません?
(仮想モノの小説家もこんな所から考えるんですかねぇ?)


 もう第7回ですかぁ・・・
これからも期待しておりますんで(次は誰でしょう?)がんばってくださいね。


第7回 曹真 投稿日:04月17日(金)11時34分57秒

曹真字は子丹。曹操の族子(おい)にして曹休、司馬懿、陳群と並び
文帝より明帝の補佐を委嘱された重臣。
主に関中方面で孔明による蜀の侵攻の防御にあたる。
最高位は大司馬。死後、息子の曹爽が後を継ぎ、幼帝曹芳の補佐に当たるも
司馬一族のクーデターにより壊滅。

演義では孔明に翻弄されるのみならず、配下の司馬懿にも小馬鹿にされる
という損な役回りです。
しかし実際は狩猟時に虎を射殺したりする勇猛な人物でした。
虎豹騎(曹操の親衛隊)の指揮者も任されたように武将としても一流だったようです。
(虎豹騎の歴代の指揮者は曹休、曹真、曹純(曹仁の弟)。曹純の死後は曹操が自ら率いた)
それに孔明の関中侵攻を防ぎ続けたことからも有能さは立証できるでしょう。
(もちろん配下の郭淮や張[合β]が優秀だったこともあるでしょうが)
ところで三国志とはご存知の通り晋の陳寿が編集した歴史書です。
そして晋の司馬一族は曹真の一族を倒して魏の実権を握り、ついには禅譲を受けたわけです。
そうすると曹真伝の中でこの一族を賛美するような記述はできなかったとも考えられます。
不当に貶めてこそいないでしょうが、功績については幾分控えめな記述になっている可能性はあります。
そうすると曹真の功績にはもっと大きなものがあったのかも・・・。
穿ちすぎかもしれませんけどね。ただ、同時代史を読む時にはこういった注意は必要でしょう。
正史とは時の権力者に差し出すものなのですから。
話が横道にそれてしまいましたね。
曹真の若い頃の記述は正史にもあまりなく、武将としては下弁での劉備との戦いが初出です。
この頃から漢中に縁があったわけですね。
一生を関中方面の防衛の責任者として終えた名将、
先帝の委嘱に応えて幼君を守り立てた名臣と言うのが実像ではないでしょうか。

ところで以前、私は曹洪の評論の際に演義における対馬超戦の曹洪の描写の不自然さを指摘し、
「私見ではこれは曹真か曹休を描いていたもの」と推測しました。
その後演義を読み返したところ、これは曹休の方がより可能性が高いということが判明しました。
この時の「小将軍」との呼び方が銅雀台の宴の際に曹休に対して使われているからです。
本当のところどうなんでしょうかね?


第6回 郭淮 投稿日:04月06日(月)22時14分36秒

郭淮が登場するのは演技でも正史でも劉・曹のの漢中争奪戦の時です。
夏侯淵の戦死後、張[合β]を主将として防衛するよう提案します。
その後長期に亘って関中方面の守将として重きを成します。
演技では孔明の祁山進出の防衛にあたって翻弄されますが、
実際には司馬懿の幕僚、部将として堅実な守備を誇ったようです。
時折敗戦にも遭っていますが敗軍を収拾する能力にも優れていました。
孔明の死後も後継者姜維の侵攻をよく防ぎ、雍州刺史や征西将軍などを歴任した後、
三十余年に亘る功績によって車騎将軍に昇進しています。
演技では姜維を追撃する際に射た矢を掴まれて、
その反し矢で殺されるという悲惨な死に方ですが、正史の記載は違います。
ただ255年に逝去し大将軍が追贈されたとあるだけです。
郭淮の功績は対蜀の関中方面の防衛が目立ちますが、
もう一つ、異民族の反乱鎮圧の功績も忘れてはいけません。
テイ族、羌族を始めとする異民族の侵入や反乱を度々撃退しています。
郭淮の出身は太原。ここは匈奴と接する地です。
また、父郭温は雁門の太守であり、ここも匈奴と境界を接する要害の地です。
よって異民族と接する機会が多く、対異民族のエキスパートでもあったのでしょう。
ちなみにライバルの姜維も羌族と縁が深く(姜=羌という説もある)、
この両将の異民族をめぐる駆け引きは興味深いものがあります。
郭淮は最初は張[合β]、後には司馬懿や師・昭の兄弟の陰にかくれてしまっていますが、
蜀の侵入を防いだという意味ではもっとも功績のある武将だったのではないでしょうか。


第5回 楽進 投稿日:04月03日(金)16時41分21秒

小柄ながら肝太だった。驍勇果断。張楽于張徐伝の5人のうち唯一の生え抜き。
目立たないながらも要所の戦には参加して功績を残している。
濮陽、下ヒの呂布戦、官渡の袁紹戦、荊州侵攻、合肥防衛。
殆ど演技も活躍とおなじ。信任はとくに厚かった。
陥陣都尉、討寇校尉、行遊撃将軍、折衝将軍、右将軍と昇進。
魏帝国成立以前に死亡。とくに目立ったエピソードはなし。
息子の名は楽[糸林]。
演義では張遼の息子張虎とともに司馬懿の配下となり、孔明に翻弄される。
あげくには揚州刺使の時、反乱を起こした上司(征東大将軍)の諸葛誕に
「不忠者」呼ばわりされて殺される。どうも「諸葛氏」と相性が悪い。
なぜs忠A親子二代にわたって「魏」の臣下でありながら、
司馬家の言いなりになっていたから。このあたり、忠義の定義が難しい。

うーむ、今回は評論ではなく、単なる紹介になってしまった。
まったくこの親子は正史に経歴しか記載がないので、
演義との比較のしようがありませんでした。←ならやめとけって(笑)。
とりあえずはこんなところで。


3月25日〜3月30日の関連ログ


于禁の続き投稿者:大耳兒  投稿日:03月17日(火)12時00分17秒

>ひょっとすると感情(心情かな?)の問題ではないでしょうか? 
>(焦燥感・危機感等々の負の感情)
ナックル殿
演義での描写はおっしゃる通りです。
私は于禁の武将としての終焉を演義があのように描いた、と言うつもりだったのです。
言葉が足りませんでした。
で、なんで于禁に感情移入しているか、ということなんですが、
三国志を最初に読んだ時、その名が印象に残ったというそれだけです。
早い段階で登場するし、赤壁では水軍提督(しかし何故相棒が毛カイなのだろう?)、
最後に関羽に敗れるという波乱?の人生。
余談ですが、10年程前、テレビアニメで三国志がありまして、
そこでは于禁は女性で、密かに曹操を慕っているという設定でした。
確か最後は赤壁で焼死したはず。
ちなみにこのアニメ三国志は「原作横山光輝」と銘打っていましたが、
あの三国志とは大違い。
あたかも「マーズ」と「六神合体ゴッドマーズ」の違いのようでした(笑)


ちょいレス 投稿者:ナックル  投稿日:03月16日(月)04時44分42秒

>ところで演義では[广龍]徳は于禁の命令に無視して行動し、于禁は[广龍]徳の足を引っ張ろう
>とします。これは于禁の指揮能力の低下と解釈することはできないでしょうか。

 そうかもしれませんが・・・
ひょっとすると感情(心情かな?)の問題ではないでしょうか?
 (焦燥感・危機感等々の負の感情)


第4回 于禁 投稿日:03月13日(金)20時50分30秒 

于禁。字は文則。
魏屈指の名将でありながら終わりを全うしなかった為に演義でもコケにされている悲運の名将。
彼がどのくらいの名将だったかと言うと、張遼、張[合β]、徐晃、楽進と並べて
伝を立てられていることで一目瞭然でしょう。
彼らは全員が魏最高の武将です。これを凌ぐのは曹仁くらいでしょうか。
なのに演義では不当に貶められています。その描写は…。
最初に登場する于禁は颯爽としており武勇に優れているため早速「司馬」に取りたてられます。
しかし、その武勇は殆ど発揮されず敵将の引き立て役として描写されることが多いようです。
さらに于禁は赤壁において水軍都督に抜擢され、無能ぶりを嘲笑されます。
これは呉の謀略によるものですが、その役に当たるとはとんだ貧乏籤です。
その次は荊州への救援軍の指揮官として出征しますが、そこで関羽に敗れ捕虜になります。
演義での描写は潔く死んだ[广龍]徳との対比でよりいっそう惨めです。
最後には曹丕にいじめられて憤死。哀れです。
では、実際はどうだったのでしょうか。
武勇はとくに優れていたわけではないようですが、指揮能力は高かったようです。
厳格に軍隊を指揮する。これが于禁の名将たる所以です。
とくに対張繍の[シ育]水における敗戦では混乱する軍をまとめ、
暴動を起こした青州軍を鎮圧しています。
更に張繍の追撃も撃退し、曹操に賞賛されています。
一方ではその厳格さゆえに二度目の反乱を起こして再度降伏した旧友の昌稀を涙乍ら処刑しています。
曹操は実はこの昌稀を許す気があり、「于禁のもとに降伏したのは運命だった」と嘆いていますが、
于禁の措置自体は評価しています。
ちなみに昌稀は最初の反乱の時には張遼のもとに降伏し、救われています
(これが演義の張遼が関羽に降伏を勧める場面のモデルになったといわれています)。
荊州救援については、戦に敗れたのは洪水という不運によるものです。
ただ、身の処し方についてのみ[广龍]徳に劣ると評価されたに過ぎません。
ところで演義では[广龍]徳は于禁の命令に無視して行動し、
于禁は[广龍]徳の足を引っ張ろうとします。
これは于禁の指揮能力の低下と解釈することはできないでしょうか。
于禁の最大の長所である指揮能力の低下。
これはまさに武将としての終焉を意味するものでしょう。
関羽に降伏し荊州に囚われ、呉に移送されて孫権のもとで賓客としてもてなされたのは
「名将于禁」ではなく「名士于禁」だったのです。
それ以降のことは皆様ご存知の通りです。これは曹丕の非難になるので割愛します。
何か現代社会における創業に貢献したエリート(堅物の仕事人間)が燃え尽きて
二代目社長に冷遇される様を想像してしまいます。
少々感情移入が過ぎたでしょうか。


第3回 劉曄 投稿日:03月03日(火)18時11分34秒

劉曄字は子揚。後漢の始祖光武帝の子孫。
劉備のように自称ではなく、本物の皇族です。
演義では皆様のご指摘通り「発石車(霹靂車)」を発明したことになっています。
しかし、史実ではこの時はまだ曹操には仕えていなかった様です。
武帝紀にも「袁軍が砂山の上から矢を射掛けたので曹軍は苦戦した」
との記述はありますが、「発石車」で対抗したとはなっていません。
劉曄はこの頃(西暦200年)は地方の有力者「鄭宝」に誘われてその幕下にあったようです。
友人の魯粛にも手紙を送って鄭宝のもとへ誘っています。
魯粛はそれで悩んでいるところを今度は周瑜に誘われて孫権の元へ行きます。
このあたりの事情は劉曄伝と魯粛伝とで若干時間のずれがあるようです。
西暦200年と言えば官渡の戦いがあり、孫策が死んだ年です。
魯粛が仕えたのは孫権なので、劉曄に誘われて迷っていたのもこの年と思われます。
一方、劉曄はこの頃鄭宝を殺して曹操の傘下に加わっているのです(劉曄伝)。
更に同伝にこの後の事件として、孫策が劉勲を攻めた事などが記載されています。
しかし鄭宝を殺した後に(しかも自分はすでに曹操の傘下に入ったのに)
魯粛に対してこのような誘いかたはしないでしょう。
それとも魯粛が手紙をもらったのはずっと以前で、長い間悩み続けていたのでしょうか。
謎です。それに劉曄本人も鄭宝の協力するのには乗り気では無かったようだし・・・。
どうも劉曄は人の反対の行動、言動を取る事が多く、
結果としてそれが正解だったために智者の評判を得たのかも知れません。
○漢中征服後蜀侵攻をためらった曹操に蜀侵攻を進言した。
○夷陵戦に際して呉が降伏してきたのを受け入れないように進言した。
いずれもその時点では取り上げられず、
後に後悔した主君から「今からはどうじゃ」と問われると、
「もうすでに遅うございます」と反対しています。
「機を見るに敏蛯B
しかし一説では明帝にうとまれて発狂して左遷されて死んだともいわれています。
うとまれた理由はわざと主君と反対の事を口にしていることがばれたためということです。
私には単なる誹謗中傷のように思えますが、
そのように思われてしまう人物だったのでしょうか。。
人物としては賈[言羽]に近いような気がします。謀臣として。
しかし「終わりを全うした」と言う点で賈[言羽]の方が上でしょうか。
「智に走りすぎて誠実さを欠いた策士」というのが私の印象です。
皆様いかがでしょうか。


第2回 曹洪 投稿日:02月27日(金)16時24分59秒

曹洪と言えば曹仁と並ぶ親族将軍で曹操挙兵の当初より付き従った人物です。
対呂布戦、対袁紹戦で活躍し、後には対劉備戦で漢中方面の抑えとして張飛に相対します。
前回の夏侯惇と比べて武将としての能力は数段上だったようです。
さらに特筆すべきは対董卓戦(敵将は徐栄)で乗馬を失い絶体絶命の危機だった曹操を
身を楯にして無事生還させた事でしょう。
これは魏王朝の将来のみならず、自身の命をも救った事になります(後述)。
さて、武将としては優れていた曹洪ですが、人物としては吝嗇(ケチ)で蓄財に熱心だったようです。
たとえば、曹操が資産調査を行った時に曹操家の資産と曹洪家の資産がほぼ同等で、
曹操が「そんなはずはなかろう」と笑い飛ばしたり、
曹丕からの借財の申し出を断ったり。それがもとで曹丕の恨みを買っています。
曹丕と言えば于禁のエピソード
(関羽に降伏した于禁に寛大な言葉をかけながら一方で屈辱的な絵を見せて憤死させた)や、
張繍のエピソード(兄曹昂を戦死させたことに対していつまでも恨み言を言っていた)など、
いつまでも根に持つタイプのようです。
そのため、曹洪も食客の過失に連座して過去の恨みをもとに死罪にされそうになります。
この時にかつて曹操の命を救った事が生きてきます。
すなわち卞大后(曹丕の母)が「子廉(曹洪の字)がいなければ今の曹家はないのですよ」
と曹丕を説得し、更には皇后にも「曹洪を殺させたらあなたを廃位します」
と脅して曹洪の命を救ったのでした。
このようなことがあったせいか一族の功臣にしては最高位は驃騎将軍と低かったようです
(あくまでも夏侯惇や曹仁の大将軍、大司馬に比べて)。
余談ながら曹操とその他の曹一族は血縁関係はありません(母系はあるかも)。
夏侯一族との方がより近いようです(父曹嵩の実家)。
従って魏国成立後も頼りにしたのは夏侯一族だったようです。
例えば惇の子、楙(これは役に立たなかった)。淵の子、覇兄弟。尚(惇、淵の甥)の子、玄。
曹一族では曹真とその子の爽が重用されますが、これも夏侯氏との姻族関係があるが故でしょう
(一説では曹真は旧姓は「秦B曹操より「曹」の姓を受けたとも)。
いずれにせよ夏侯、曹の両家に優秀な人材が輩出した事が魏が中原を制覇できた大きな要因でしょう。
と、本来ならばこれで曹洪の巻は終了なのですが、
かねてより私が気にかけている疑問を提示したいと思います。
それは正史でなく演義での記述なのですが、関中における馬超との攻防戦の序盤のことです。
曹操はこの時先鋒に曹洪を指名します。
それを曹仁は「弟は年若で短気者」と言って反対しているのです。
更に副将の徐晃も曹洪を「小将軍」と呼ぶなど、
この場面に限ってのみ曹洪は「年若で短気者」なのです。
この時は曹操の挙兵から20年程経っており、曹洪が年若と言うのは不自然です。
ではなぜそのように演義では描かれているのでしょうか。
正史にはこの部分に関しては(曹洪の戦いぶりという意味では)詳細な記載はありません。
従って推理に頼るしかないようです。
私見ではこれは元々は曹真か曹休を描いていたものだったと思います。
それが演義成立の過程で名を誤ったのではないかと。
曹真・曹休であれば曹操の甥(族子)なので「年若で短気者」ということもありうるでしょう。
また曹仁の実弟曹純の可能性もありますが、この時はすでに曹純は死亡しているはずです
(もっとも演義は「おはなし」なのでまだ生かしておいてもいいのですが)。
いずれにせよ、演義成立以前のテキスト(講談のタネ本等)でも見つからない限り、
真相は不明でしょう。
と、疑問を残しつつ今回は終了いたします。ではまた。
・・・次回は劉曄だっ!


第1回 夏侯惇 投稿日:02月19日(木)10時55分02秒

予告通り始めさせていただきます。
まずは夏侯惇から(おおっ、少年○ャンプより予告に忠実だ!)。
夏侯惇と言えば曹操の側近NO1で猛将のイメージが強いですね。
とくに矢に当たった眼球を引き抜いて食らうあたりは壮絶なものがあります。
他にも演義では関羽と一騎打ちをしたり、見せ場は多いです。
しかし後半(赤壁以後)は武将として登場する機会はめっきり減り、
出てきても負け戦が多く、むしろ曹操の側近としての色がこくなります。
では実在の夏侯惇はどうだったのでしょうか。
14歳で師匠を侮った者を殺したり、
鏡を見るたびに怒って鏡を割ったというエピソードは事実です。
要するに「短気l物だったのでしょう。
これは従弟の夏侯淵もそうですが、夏侯一族の気質かも知れません。
武人としては陣中に学者を伴って学問をしたり、
兵卒と一緒に土木作業をしたりする真面目な武将のようです。
ただ、敵軍に囚われたエピソードもあり、武技は得意ではなかったのかもしれません。
夏侯・曹一族の伝記をまとめた「諸夏侯曹伝」では曹仁の武技について
「魏の諸将で最高であり、張遼がこれに継ぐ」と曹仁の武勇には触れていながら
夏侯惇には触れていません。
つまり、演義で描写されるほどの武勇はなかったという事でしょう。
また曹操が政権を握った後はめっきり実戦から遠ざかったようで、
名目上の将軍職にあって実際には曹操の軍事面の補佐役に徹していたのでしょう。
前述の曹仁が最前線の荊州に常駐していたのとは好対照です。
結論。
夏侯惇はやや短気なところがあるが、志卒を慈しみ学問を愛する良将であった。
実戦には強くはなかったが、軍事面での曹操の補佐役として重きを成した。
また、皇帝(正確には魏王)の親族として信頼され、その恩寵は臣下で一番であった。
というところでしょうか。
反論を含めて皆様のご意見をお待ちしています。


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