魏呉蜀アンケート
三国志人気投票
あなたの好きな三国志の人物は?

全件数:54 有効回答数:54

項目名選択数割合グラフ
曹操
1018% +++++++++
孫策
712% ++++++
魯粛
712% ++++++
楊脩
35% ++
諸葛亮
35% ++
司馬懿
35% ++
陸抗
35% ++
周倉
23% +
周瑜
23% +
趙雲
23% +
司馬炎
11%
陸遜
11%
張紹
11%
関羽
11%
呂布
11%
張悌
11%
卑弥呼
11%
張遼
11%
王平
11%
馬超
11%
孫夫人
11%

曹操 そうそう 字・孟徳(もうとく) 魏太祖武帝 155-220
魏王。『三国志演義』では前半の主人公。
黄巾の乱討伐に参加して頭角を現す。董卓の死後混乱する大陸を縦横。
献帝を擁して許昌に遷都し、官渡で袁紹を破って河北を手中にする。
荊州征伐を行って赤壁で敗れたが、大国・魏の礎を築き上げた。
軍事・政治のみならず、文化でも比類無き功績を残した「超世の傑」

孫策 そんさく 字・伯符(はくふ) 漢討逆将軍、長沙桓王 175-200
漢破虜将軍・孫堅の長男。袁術から三千の兵を借りて挙兵する。
短期間に江東一帯を平定して「小覇王」と呼ばれた(「覇王」項羽にちなむ)。
曹操と袁紹が官渡で戦っている間に、許を襲撃して献帝を奪おうと考えるが、
以前殺した元呉郡太守・許貢の食客に襲われ、その傷が元で二十六歳の若さで没した。
孫権の覇業は孫策のそれを引き継いだに過ぎない。

魯粛 ろしゅく 字・子敬(しけい) 横江将軍 172-217
呉の臣。以前倉一つを提供して援助した周瑜の推挙で孫権に仕える。
赤壁の戦いでは劉備と連合して決戦するように主張する。
周瑜亡きあとの都督に任ぜられ、荊州の領有問題をかかえる蜀との友好を図った。
その死に際しては孫権も哭礼を行い、諸葛亮も服喪している。
そして、まもなく呉と蜀は決裂して戦うこととなる。

楊脩 ようしゅう 字・徳祖(とくそ)
曹操配下の臣、主簿。後漢の大尉・楊彪の子。
狂士禰衡にも「いま人物は孔融と楊脩だけ」と評される。
『演義』では「曹娥の碑」「鶏肋」「闊」「一合の酥」などの逸話が見え、
才はあるが曹操に疎まれ処刑された。袁術の甥であるからとも、
曹植に入れ知恵したからともいわれている。

諸葛亮 しょかつりょう 字・孔明(こうめい) 181-234
蜀の丞相。臥龍の異名を持つ。『演義』後半の主人公。
三顧の礼によって劉備に仕え、外交、内政に非凡な才能を発揮した。
五度の北伐を敢行して、五丈原に倒れる。忠武侯。

司馬懿 しばい 字・仲達(ちゅうたつ) 179-251
魏の臣、大尉。曹氏四代に仕えて晋王朝の土台を築き上げた。
蜀漢との戦いでは守勢に徹して勝利を収める。
曹爽と争い魏の実権を掌握。晋建国後、宣帝と追尊。

陸抗 りくこう 字・幼節(ようせつ) 226-274
呉の大司馬。丞相・陸遜の次子。孫策の孫にもあたる。
諸葛恪の死後はほとんど一身に呉の命運を背負い、病躯を押して晋の侵攻を防ぐ。
しかし時の呉の皇帝は暴君孫皓であり、次第に呉の国力は低下していった。
死に際し上奏して孫皓を諫めているが、その死後、呉は晋に併合された。

周倉 しゅうそう
もと黄巾賊の張宝配下の大将。その後、山賊をしていたところ、
崇拝していた関羽と出会って、その片腕となった。
水練に長じ、荊州をめぐる魏との戦いで活躍したが、
関羽が呉に殺されるとその後を追った。正史には登場しない人物。

周瑜 しゅうゆ 字・公謹(こうきん) 偏将軍 175-210
呉の将。主君・孫策とは義兄弟。孫策の遺言で若き孫権を助け、
赤壁の戦いでは都督として水軍を指揮し、曹操の大軍を破る。
容姿端麗で美周郎(「周郎」は周の若殿様の意)の異名をとった。
また、音楽にも精通しており「曲に誤りあれば周郎返り見る」と言われた。
「天下二分の計」のもと、蜀征伐を志すも急病死した。

趙雲 ちょううん 字・子竜(しりょう・しりゅう) ?-229
蜀の将、鎮東将軍。袁紹、公孫[王賛]に仕えたのち、劉備に帰順する。
長阪では魏軍百万の大軍に単騎で斬りこみ、劉備の子・阿斗(のちの劉禅)を救い出す。
いわゆる『演義』の五虎大将として、孔明の第一次北伐まで従軍する。

司馬炎 しばえん 字・安世(あんせい) 236-290
武帝。司馬懿の次男・司馬昭の長子。魏の元帝から禅譲されて晋の初代皇帝となる。
慎重派の反対を抑えて呉を討伐しここに三国時代は終わりを告げる。
彼が取った軍縮、王室偏重の施策は「八王の乱」を招き、
隋の統一まで、中国大陸をさらなる戦乱へと導くことになる。

陸遜 りくそん 字・伯言(はくげん) 183-245
呉の丞相。孫策の娘婿。呂蒙とともに関羽を倒し、
夷陵の戦いでは、大都督となり蜀の大軍を撃破した。
のちに呉の丞相となったが、孫権の後継者争いに巻き込まれ、
また陸家が大豪族だったこともあり、孫権に忌避されて憤死した。

張紹 ちょうしょう
蜀の臣、侍中・尚書僕射。張飛の次男。
蜀漢降伏時に、[言焦]周とともに玉璽を[登β]艾に渡す。
鐘会の死後、劉禅が洛陽へ移ると、これに従い、列侯に封ぜられた。

関羽 かんう 字・雲長(うんちょう) ?-219
蜀の将、前将軍。その美しい髭から美髯公(びぜんこう)と言われた。
劉備の挙兵時から従い、劉備は関羽・張飛を兄弟同様に遇した。
袁紹の将顔良を斬って勇名を轟かすようになり、後に荊州を任せられて
魏の[广龍]徳を斬り于禁を捕らえ、一時は曹操に遷都まで決意させる。
魏と呉が密かに手を結んで関羽を攻撃したため敗れ、呉に捕らえられて斬られた。
その死後、神・関帝となって現在に至るまで人々の尊崇を集めている。

呂布 りょふ 字・奉先(ほうせん) ?-198
後漢の将。「人中の呂布、馬中の赤兎(馬)」と称された猛将。
丁原、董卓と次々と主君を裏切って独立。
自らも部下に裏切られて曹操に捕らえられ、処刑を促した劉備を罵倒しつつ絞殺された。
密通していた董卓の侍女が『演義』の美女・貂蝉のモデルといわれる。

張悌 ちょうてい 字・巨先(きょせん) ?-280
呉の丞相。魏の蜀征伐の成功を予言すると人々は信じなかったが、
その通りになった。若い頃、諸葛亮の知遇にあったらしく、
それに応えようと圧倒的な劣勢の中、呉討伐の晋軍に向かい戦死した。

卑弥呼 ひみこ
倭の女王。魏志倭人伝に、238年魏に遣いを送ったことが見え、
親魏倭王に封じられた。

張遼 ちょうりょう 字・文遠(ぶんえん) 165-221
魏の将、征東将軍。のち前将軍。呂布に代わって曹操に仕える。
騎兵に巧みで、合肥を守備した際にはわずか八百の兵で十万の孫権軍を撃退した。
『演義』には、呉では「遼来来(張遼が来たぞ)」というと
子供の夜泣きもおさまるほどだった、という話が載せられている。
呉の丁奉から受けた矢傷が元で死んだという『演義』の話は正史には見えない(病死)。

王平 おうへい 字・子均(しきん) ?-248
蜀の将。もとは魏の将軍だったが曹操の漢中征伐の際に劉備に降伏する。
街亭で馬謖の無謀な作戦を諫め、敗北後も王平の軍だけは持ちこたえた。
孔明に信任され、その死後も魏を防いだ。戦陣の中で成長したため、
字は十字足らずしか知らなかったが、口述筆記した文書はすべて筋が通っていた。

馬超 ばちょう 字・孟起(もうき) 176-222
西涼の馬騰の長男。「錦馬超」の異名を持ち、いわゆる五虎大将の一人。
曹操に敗れた後は劉備に帰順し、驃騎将軍となるが翌年死去。
蜀ではさしたる活躍はないが、その名を恐れた劉璋が降伏するなど戦略的活躍が多い。

孫夫人 そんふじん
呉の孫権の妹で名は孫仁というが、孫仁は孫朗の別名であり男である。
つまり『演義』において創作された女性となる。
劉備の妻となる。その後、呉に帰るが夫の戦死の報せ(実は誤報)を聞いて自殺した。


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