SANTA's Happy World / 修行日記

SANTA's Happy World_(diary) [Since 1998/7/7]_[2003/05/22 更新]


さんたの修行日記

ここでは、日々の修行の成果、失敗談、その時思うことなどを自由に綴っていこうと思っています。

過去の日記セレクション目次


森田療法[2002/12/18]

 今読んでいる大原健士郎「とらわれる生き方、あるがままの生き方」は、森田療法について書かれた本です。

その中にこんな記述があります。

引用 /////////////////////////

 精神分析医が雷恐怖を治療しようとすると、おそらく過去の心的外傷(トラウマ)を幼年期にまでさかのぼって分析しようとするだろう。これはどうかと思うね。
 行動療法家が雷恐怖を治療しようとすれば、雷鳴が轟き、稲光りがする小高い丘に連れていき、傘をさして立たせて、体験的に雷に馴らさせようとするだろう。
 しかし、これは本当に危険なことで、感心しない。
 その点、森田療法は、くだらない分析をしたり、特別な状況を設定するのではなく、日常生活の中で治していこうとする特徴がある。つまり、危険のあるときには、それを回避し、危険が去ればもとの健康な生活に戻るというわけだ。
(P197)

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 これは、ネオ・モリタセラピーをやっている著者の贔屓目もあるのでしょうが、精神分析がくだらないというのは、理解不足だと思います。
 確かに、カウンセリングでは回復までに何年もかかることがあるようで、その点森田療法では比較的早く回復し、社会復帰できるというのはよい点だと思います。

しかし、一方では、こんな記述もあります。

引用 /////////////////////////

 私がロサンゼルスに留学していた際、私のボスでシュナイドマンという自殺を研究している学者がいた。その人が、自殺したい人は金持ちに多いのか貧乏人に多いのか調べたんだね。
 一般的には、金持ちは豊かで何ひとつ不自由ないが、貧乏人はお金に困っているから貧乏人に多いだろうと考えたのだが、結果は逆に出た。豊かになって人生目標を失うと、ちょっとしたことにも動揺する。貧乏であっても人生目標が設定されていれば、その目標にまい進できる。
(P192)

////////////////////////////

この記述を共依存の視点を踏まえて読むと、単なるワーカホリックなどの依存状態で自己肯定感を維持していたから、お金持ちになり仕事に依存できないと自己の存在意義を失うということだと考えられます。

 つまり、森田療法の回復とは、共依存を強いる社会に適応できる程度に回復するということなので、根本的な不安の解消にはなっていないということです。

ですから、こんな記述もあります。

引用 ////////////////////////

 人間を価値づけるのは、やはり行動とその実績だよ。(P79)

 私は次から次へと自分でやることを見つけ出した。それで自然に治ったのだろうと思う。(P61)

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実績に価値があるとしたら、常に成果をあげ続ける必要が生じます。それは、常に比較と勝ち負けを意識し続けなければなりませんから、そこに穏やかな心は存在しえないでしょう。また、行動と実績に依存している状態といえますね。

森田先生自身も「不安な自分」で生きなさい、というアプローチをしていたようです。(P25参考)

 つまり、森田療法には、すべては愛と不安のどちらかがすべての動機になっているという視点がないわけです。だから、不安を動機に行動し、実績を上げることで仮の肯定感を作ることで社会復帰させるわけです。

引用//////////////////////

 人間だから、生きていく上には不安も悩みもつきまとう。建設的なことにその不安だとか悩みを使えばいいものを、(P207)

///////////////////////

 神経症の程度の重い人は、まず森田療法で社会復帰し、その後『存在意義不安症』を治すというのもいいかもね。(^^)

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日記は、下に行くほど新しくなります。タイトルで見たいところへ飛べます。

[2002年11月] パワー・オブ・ザ・ギフト

[2002年12月] 存在意義不安症すべての人が悟れる森田療法


パワー・オブ・ザ・ギフト[2002/11/17]

 ちょっと前に買って積んでおいた『パワー・オブ・ザ・ギフト』という本を読み始めた。これが、「超」が突くほど素晴らしい。『聖なる予言』のように、小説仕立てなのだが、最初にある著者の以下の謝辞を読めば、わかる人には変わるだろう。

引用//////////////////////////////

謝辞

 まず、チャックおよびレンシー・スペザーノに、そのすばらしい友情と影響力を感謝したい。ふたりがスピリチュアリティと心理学を統合し、また勇気をもって真実のむすびつきの道を生きていることは、あなたがたが出会うすべての人々に重要なインスピレーションを与えるだろう。
 チャックはまた長年にわたってわたしをはげまし支えてくれた。ヴィジョン心理学が与えてくれた資料は、本書にあるメッセージのたいへん貴重な部分となっている。ありがとう。
 三番目に、本書が必要とするレッスンの価値を高めるシンプルかつパワフルなアイディアを供給してくれた“A Course in Miracles(奇跡のコース)”に感謝の意を表したい。

(以下、七つの感謝がありますが省略)

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ちょっと、内容を拾い読みしてみましょう。このサイトの主張と重なっているでしょ?(^^)

いままで自分自身の人生をもったことなんてないと思うよ・・・・・ぼくがすることって言えば、人を喜ばせることだけだ。(P27)

「ピート、ぼくたちが話し合っているのはスピリチュアリティについてなんだぞ」
「セックスはスピリチュアリティじゃってのか?」(P33)

「考えをまいたら、行為を刈り取る・・・・・行為をまいたら、習慣を刈り取る・・・・・習慣をまいたら、性格を刈り取る・・・・・性格をまいたら、運命を刈り取る」(P37)

「わたしがあなたがたにお教えするすべてのことの手かがりは、責任というものにある。あなたがたは自分の人生に起こることすべてに個人的に責任を負うことを学ぶのです。起こることすべてにね。」(P37)

「今日できることを」男はゆっくりとそして重々しく言った。「明日に延ばさないこと」(P39)

「自分自身に対するコミットメントの欠落について言っているのです。自分が引き延ばしていることだけで頭をいっぱいにしておくかぎり、自分自身については考える必要さえないでしょう。最近、人生において自分を優先させたのはいつですか?」(P47)

「信じようと信じまいと、すべてあなたがたが世界をどう見ているかということに帰着します。」(P52)

「あなた方に欠けているのは“戦士の決意”です。真の戦士は自分を優先させるべきだと知っています。」(P54)

「それは潜在意識に関するかぎり、過去において解決されなかったことはなんであろうとまだ引きずられていて、いま起こっていることに直接影響を与えているということです。」(P55)

「自分自身の内部の声を信頼できないなら、なにを信頼しますか?」(P58)

「“戦士の決意”だけは覚えおていてください。つまり自分の人生で自分自身を優先させることを決意し、そして人生が与えてくれるべきものをすべてすすんで受け取ること」(P58)

「“戦士の決意”は人生において自分がなにを優先させるべきかをわからせてくれます。それはあなたがたの確固とした目的意識です。それがなくてはどんな問題も解決されないし、どれほどためになる目標であっても達成されない。まず自分のしあわせを第一に置かねばならないのです」(P73)

「それでは・・・・・直感を使いなさい」(P74)

「わたしたちを目標から遠ざけるのは自分自身の感情と態度です。しかし潜在意識はわたしたちにそれに気付かせないようにして、自分は価値がないとたえず思わせるようにする。そして目標に到達できないのを自分以外のだれか、あるいはなにかのせいにするようにとそそのかすのです。」(P77)

「そのプロセスを信じなさい。」(P90)

「人生が与えてくれるあらゆるものを自分で獲得しなければならないと思っている。獲得するという概念がそもそも、ただ受け入れるような価値などないという決定からきていることさえわかっていない」(P113)

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今、ここまで読んだのですが、まったく同じことを言っていますねえ。(^^)

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存在意義不安症[2002/12/06]

 アメリカでの共依存研究の権威であるシャロン・ウェグシェイダー=クラウスは、(アメリカの)人口の約96%が共依存者の条件に当てはまると言います。

 共依存症とは、『自己肯定感のなさ』を補うために、誰かとの人間関係に依存している状態(私の定義)です。

 アルコール依存、宗教依存など、人間関係以外のものに依存するのも、『自己肯定感のなさ』をごまかしている、または、補っている状態と考えられます。

 宗教依存などは、敬虔な信者という他人の評価を得るための条件を満たすためににやっているという見方をすると、共依存といえます。

 つまり、依存や共依存という症状もひとつの『自己肯定感のなさ』という同一の根本的原因に発するひとつの症候群であると考えることができます。

 この原因である『その自己肯定感のなさ』は、子どもが育つ上で、社会に適応するように、しつけとして植え付けられた“「こうあるべき(それ以外はいけない)」という「禁止令」”が、自己の中に内在化されることによって、「あるがままの自分」を肯定できないために生じていると私は考えます。そして、社会そのものがその構成員である私たちに、その『あるべき』をある程度要求することによって維持されているのですから、すべての人が一度は『自己肯定感のなさ』を感じる状態になっていると言えると私は考えます。

 

 そして、それが私たちの社会や人生を不安にする一番根底にある原因だと私は考え、その自己肯定感のなさを感じる状態を『存在意義不安症』と名づけることにしました。(^^)

 

 それは、ニューエイジなどでいう、愛と恐れ、愛と不安という形で、愛と対極に位置させられている恐れとか不安とか言われているものです。

愛は、あるがままを無条件に受け入れている状態ということができ、その対極は、当然、ある条件を満たさなければ、受け入れない状態(条件付の愛)です。

 『存在意義不安症』においては、条件を満たしている時は存在意義を感じますが、この無常の(常に変わり続ける)世界において、人がその条件の中にい続けることは不可能ですから、常に存在意義を失う不安と共に生きていくことになります。たとえば、今、成績がトップでも、誰かに抜かれる可能性が常にあります。実は、この存在意義は、比較によって生じている偽りの存在意義なのです。真の存在意義は、偽りの愛(条件付の愛)からは生まれません。

愛とは、「ひとつであること(をわかること)」という言い方ができますが、つまり、その対極である「分離したことによる不安」と「存在意義に対する不安」とは、同じものなのです。私達は、分離を現実と感じ、この集団もしくはその構成員(社会、家庭、他人、親など)に必要されることが、存在意義を生むと感じてしまいます。いわゆる『生きがい』と呼ばれる『生きる価値』は、その仮の存在意義のことです。その価値は目的に対して相対的に生じます。

 しかし、実際のところ私達は、誰かに存在意義がないと言われても存在しています。誰かのあなたに対する存在意義があるかないかの意見は、その人の分離した意識が生み出した幻想に過ぎません。その人の選択した考えによって相対的に導き出されたひとつの考えであり、その人が選択したという以上の根拠などないのです。

 存在意義とは、人生に絶望した人がよく言う「私は何のために生きているのだろうか?」という言葉の中で問われている『生きる意味』のことです。

 その場合、『生』に対して意味づけをできるのは、意志だけです。この場合、神と自分と他人があり、あなたの生に関係しているのは、神と自分だけです。そして、後述しますが、神はあなたの生きる意味、存在意義を認めています。

 認めていないのは、あなたなのです。それが『存在意義不安症』です。

 価値は目的に対して相対的に必然として決まりますが、意味があるとかないとかは、基準、見方を変えることによってまったく逆転します。どういうことかというと、良い人として生きることを目的にしている人は、良い人であることに価値を見出し、悪い人であることに価値はないと見なします。

 しかし、反面教師という言葉示すように、悪い人を見ることによって、それを目的に活かすことができるという意味と、悪い人との比較によって良い人が成立しているという意味(悪い人だから良い人になれるを含む)とにおいて、悪い人にも意味があることになります。

 つまり、意味は、すべての状態に見出すことができるのです。すべてに存在意義があるといえるのです。それが無条件の愛です。

 またニューエイジ的に言えば、神がその存在意義を認めているから存在しているともいえます。神は無条件の愛として、最初からあるがままのあなたを認めているのです。

 このゆるぎない(絶対的ということではなく、相対世界においてゆるがないということ)存在意義を実感することこそ、存在意義不安症からの回復なのです。それは私がこれまで、共依存からの完全回復と呼んできたものです。そして、それが無条件の愛である状態です。

 

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い‐ぎ【意義】
1)意味。わけ。言語学では、特に「意味」と区別して「一つの語が文脈を離れてもさし得る内容」の意に使うこともある。
2)物事が他との連関において持つ価値・重要さ。「参加することに―がある」

い‐み【意味】
1)ある表現に対応し、それによって指示される内容。
イ)ある言語形式によって示され、表される内容。または、その指し表し方の型。わけ。「単語の
―を調べる」
→意義。
ロ)言語・作品・行為など、何らかの表現を通して表され、またそこから汲み取れる、その表現の
ねらい・かまえ・こころ。「何を言いたいのか―が分らない」
2)物事が他との連関において持つ価値や重要さ。「そんな事をしたって―がない」

そん‐ざい【存在】
1)一般に「ある」ということ、および「あるもの」。「ある」の理解に応じてさまざまな意味がある。有(ユウ)ともいう。
2)〔哲〕(being イギリス・Sein ドイツ)
実体と属性とに分れ、前者は基体・本体のようにそれ自体で独立にあるが、後者は前者に付帯して依存的にある。また、実体には自然的・物的なものと、意識的なもの更に超自然的で非感覚的なものとがある。

しょう【症】シヤウ
病気の性質。病気。

しょうこう‐ぐん【症候群】シヤウ‥
(syndrome) 相伴っておこる一群の症候。一つの症候群に属する諸症候は同一の根本的原因に発すると見られる。

以上、CD広辞苑第四版による。

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すべての人が悟れる[2002/12/12]

 今昨日、ある方からメールをもらいました。はっぴーわーるどの生き方(掲示板、メール、お薦めの本等でのアドバス含む)を実践して、生きるのが楽になり、幸せになったという内容です。

最近、こういうメールを何通も頂いています。(許可をもらって紹介するコーナーを作りたいと思っていますので、よろしくね。(^^))

何をもって悟りというかは、悟りの定義によって変わりますが、少なくとも、否定的な感情に振り回されて苦を感じている状態から抜け出した、という意味では、私はもちろん、それらメールを頂いた方からの共通の感想です。

さらに、これまで見えていなかった人間関係を結び付けていたものが見えるようになってくるということがあります。これは、人との縁が見えると言い換えられると思います。

また、マスターの一言の重みが見えてくるということもあるでしょう。

自分の住む世界が、恐ろしい世界から愛に満ちたものに見えてくるということもあります。

さらに、そこかしこに愛を見るようになり、自らも愛をペイ・フォワードしていけるのです。ある意味では慈悲の一部と言えるでしょう。

 まあ、それがどんなものであれ、自分で体験してみるまでは、本当のところはわからないのです。そして、一度その世界に至ったなら、歓びにあふれた人生をおくることになります。そして、それを周りに広げ始めるのです。

 そして、いま、そういうマスターたちが確実に増えてきています。これからは、すべての人が悟ることができるのです。地球はパラダイム・シフトした新しい時代(ニューエイジ)に入っているのです。しかし、あなたがどうであるかは、あなた自身の選択にかかっているのです。あなたが与えたものは、あなたに返って来るのです。あなただけは、恐れに満ちた古い時代にい続けることもできます。

 すでに扉は開かれています。・・・・・あなたが決めてください。

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エゴの活動開始[2002/12/11]

 今朝もいつものように、朝のまどろみの中で思考を重ねていた。

と、そのとき、どこかでカーテンを開ける音がした。最初はそれをただ聞いていた。しかし、その直後に覚めていく(一般的な意味で)目が覚めていくのを感じた。その私は目覚めを観察していた。自分の内部から外に向けて、知覚がアンテナを伸ばし始めていた。それに伴って外に向かう思考が活動を開始した。

『これだ!』私は、ユウレイカ(ギリシャ語の heureka、英語の eureka )と叫びたいほどだった。

この外に向かう知覚と、それに伴う思考がエゴの活動なのだ。おそらく、これを読んでいる人にはわかりにくいと思うが、石原加受子 著『自己主張が楽にできる本』(実務教育出版 1300円)を参考にしてもらいたい。

引用 ////////////////////////////////////

 最近、私は盛んに「自分を中心にしてください」と言っている。こう言うとたいていの人は、「なんてこと言うのよ、他人のことを考えない自己中心的な人があふれているから、社会がこんなに荒れてしまっているのに、あなたは油に火を注ぐようなことを言っているのよ」と言わんばかりの反応を示す。
 仕事も結婚もうまく進まない、という男性がいた。<中略>

私が、
「自分を中心にしてください」
と言うと、彼は怪訝な顔をした。彼は、職場のみんなから「我儘だ」「喧嘩っ早い」「身勝手だ」と言われている、と腹を立てていた。そんな彼に「自分を中心に」と言ったので、彼は「自分の思いどおりに事を運ぼうとするたびに争いになるのに、お前はこれまで以上に自己主張をしろと言うのか。そんなことをしたら、なおさら嫌われてしまうじゃないか」というような表情をした。<中略>

 彼の主張は一貫していた。それは「自分の周囲には性格の悪い奴、非常識な奴がウヨウヨしていて、そんな奴らが自分をいかに不当に扱っているか」ということだった。
 彼が相手への批判や批難ばかりに目を向けており、それが不満を生み出していることは明らかだった。彼の話からは、彼がそのような不満に対してどんな処理の仕方をしているのか、どんな対処をしているのかということは一向に見えてこなかった。<中略>

 私はひとしきり彼の話を聞いてから言った。
「いま、あなたがおっしゃったことは、すべてが他者を中心にした考えではありませんか」
 彼は「?」というような顔をした。
「あなたがいま述べたことのほとんどは、相手がどうしたかということですよね。あなたの目に相手がどういうふうに見えるか、相手がどういう言動をとったかということに終始していませんか」
 私はこれを『相手を中心にした考え方』という言葉で表現している。(『自己主張が楽にできる本』P2〜P4)

///////////////////////////////////////

 つまり、ここでいう『相手を中心にした考え方』というのが、今朝、気づいた『それに伴って外に向かう思考』なのだ。これがエゴの正体なのだ。そして、エゴが創られるのは、共依存的な禁止令からだ。

 

引用 ////////////////////////////////////

子どもの善悪の判断とは、まず親の判断そのものになります。(P86)

 自分が大事にしているおもちゃを、乱暴な友達が「貸して」と言ってきたとき、壊されるかもしれないので「イヤ」と言うと、「貸してあげない子はいじわるよ」と叱られます。このとき、この子どものおもちゃを大事にしたいという自分の心は、否定されてしまうのです。
 親の目で自分を見ることは、自然に子どもの心に内在化されていきます。すると、私たちの心は、監視する自己と、監視される自己とに分かれていきます。そして、もはや監視する自己の起源を意識することはできなくなります。(P86)

 そして、しだいに外界に適応している自分は嘘っぽく感じられ、適応していない部分のほうが本物の自分のように感じられるようになります。こうして、自己は「偽の自己」と「真の自己」とに分かれていきます。(P88)

「人と接するのがつらい(人間関係の自我心理学)」◇根本橘夫著◇文藝春秋

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親の禁止令によって創られた、この「偽の自己」こそが、「相手を中心にした考え方」であり、エゴなのだ。
禁止令は、親の価値観だけではなく、社会通念、社会規範によっても作られる。

 そして、私達は、知らず知らずに「偽の自己」と「真の自己」の両方を生きているのだ。どちらをより多く生きるかで、その人の『生きにくさ』の度合いが決まってくるのだ。

 

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